劉備が旗揚げした際に、欠かすことの出来ない人物がいます。

それは馬商人であった張世平ちょうせいへい蘇双そそうの二人です。

 

もしもこの張世平と蘇双の二人がいなければ、劉備は旗揚げする事も出来ず、

下手したら一生涿県の片田舎に沈んでいたかもしれませんね。

張世平と蘇双

張世平ちょうせいへい蘇双そそうは、中山郡で活躍していた馬商人であり、

それによって財を成していた豪商でもありました。

 

 

この頃、張角率いる黄巾賊が暴れまわっており、

 

あまりに反乱の規模が拡大していた為に、

正規軍だけでは対応ができずに義勇軍の募集が各地で行われていました。

 

劉備はこの乱れた世の中を正そうと義勇軍を結成しようとしますが、

劉備は筵を売って生活していたこともあり、金が全くといっていいほどありません。

 

 

そんな劉備に対して、

多額の資金援助をしたのが張世平と蘇双の二人になります。

 

張世平と蘇双は、劉備を見て将来大物になると予感し、

「出世払いでいいから!」と言った感じで、劉備に対して惜しみもなく援助したそうです。

 

この援助のお陰で劉備は義勇軍を結成する事ができ、

二人のお陰で劉備が世に出ていくきっかけを与えらたことだけは間違いないでしょう。

劉備を奇貨と判断した先見の明

二人から見た劉備は、まさに奇貨だったのでしょう。

 

だからこそ劉備に投資するなら、

まだ無名に近い今しかないと考えたのだと思います。

 

 

ちなみに奇貨とは、史記の中の呂不韋りょふいの伝に出てくる言葉で、

意味は珍しい物や掘り出し物といった意味合いがあります。

 

呂不韋ももともと韓の豪商でしたが、

趙国の人質になっていた秦国の公子である子楚しそをたまたま目にします。

 

 

子楚は、秦王であった昭襄王の太子(後継者)であった安国君の子供でしたが、

 

子楚の母親である夏姫が安国君からの寵愛を無くしていた為、

母親と共に趙の人質に差し出すにはそれほど痛くもない存在だったのです。

 

子楚は趙国での扱われ方もひどく、この時に呂不韋は子楚を目にしたわけですね。

 

 

それを見て、これは大きな掘り出し物だと判断した呂不韋は、

今まで商人として貯め込んだ資金を惜しみなく子楚の為に使います。

 

そしてその甲斐あって、昭襄王が亡くなった後に安国君が王座を引き継ぐと、

孝文王に名を改め、その太子には子楚がおかれる事になります。

 

子楚が太子になったことにより、呂不韋は投資した何倍もの金を手に入れ、

商人の身でありながら、大きな権力を持つに至りました。

 

まさしく呂不韋にとって子楚は、奇貨であったわけです。

張世平・蘇双が劉備に投資した判断材料

 

張世平と蘇双は、

劉備を一目見て只者ではないと判断したと書かれていますが、

 

果たしてそれだけで、

無名の貧乏人であった劉備に大金を投資するでしょうか!?

 

確かに一目見て普通の人と違うように感じる事はあるとは思いますが、

私はそうではないと思います。

 

 

当時の劉備は、劉備の親戚であった劉元起りゅうげんきの世話の元、

盧植の元に弟子入りしており、この時に公孫瓚とも知り合っていました。

 

盧植は既に漢王朝で活躍した人物であり、

黄巾賊討伐の際は漢王朝より平定の命を受けて活躍しています。

 

一方の公孫瓚は、劉備と張世平・蘇双が出会った当時、

劉備がいた涿県の県令に公孫瓚が就任していました。

 

そんな盧植や公孫瓚と繋がりがあったことが、

張世平・蘇双の投資対象になったのではないかというのが正直なところだと思いますね。

劉備の将来性を見抜いて、実子と同じ待遇をした劉元起

張世平と蘇双のその後

劉備は苦労をしながらも、最終的に蜀の皇帝まで昇り詰めるわけですから、

張世平と蘇双には先見の明があったわけです。

 

立場的には、呂不韋に匹敵するほどの投資に当たると思われます。

 

ただ残念ながら、

張世平と蘇双についてのその後の記録は一切残っていません。

 

もし張世平と蘇双が長生きをしていて、

益州の地にいる劉備を訪ねて行っていたならば、何倍ものお礼を貰っていたことでしょう。

 

 

しかし劉備が皇帝になったのは、旗揚げしてよりだいぶ後であり、

 

なので張世平と蘇双の当時の年齢的な事も考えると、

張世平と蘇双は劉備から投資した金を数倍どころか返される事もなかったんじゃないかと思いますね。

 

二人の年齢は記録として残っていない為に推測するしかありませんが、

劉備より年下ということはまずないでしょう。

 

 

また張世平と蘇双は、

馬商人として豪商にまで昇り詰めているわけですから、

 

そこに至るまで、それなりの年を重ねているというのが普通な気がします。

 

劉備が投資してもらった時の年齢は、23・24歳の時だと思いますし、

劉備が益州を手に入れたのはそれから約38年後のことなので、

 

当時の平均的な寿命を考えると、

その頃には亡くなっていると考えた方が普通だと思います。

 

 

陶謙の跡を継いで徐州を手に入れた時に、

劉備からお礼を受けていたならば話は別だと思いますが・・・

 

もしそうなら張世平と蘇双が報われたことになりますが、

そのあたりは想像の域になってしまいますね。