劉備の旗揚げに関して、絶対に欠かすことのできない人物がいます。

それは馬商人であった張世平ちょうせいへい蘇双そそうの二人ですね。

 

 

もしもこの張世平と蘇双の二人がいなければ、

劉備は旗揚げする事も出来なかった可能性はありますし、

 

涿県の片田舎から出る事もないような生涯を送っていた可能性も否めませんからね。

張世平・蘇双

張世平ちょうせいへい蘇双そそうは中山郡で活躍していた馬商人であり、

それによって財を成していた豪商でもありました。

 

 

当時張角率いる黄巾賊が各地で暴れまわっていて、

 

あまりに黄巾賊の規模が大きかった為に、

後漢の正規軍だけでは対応ができなないほどの有様でした。

 

その為に義勇軍の募集が各地で行われていたような時代だったのです。

 

 

そんな時に見つけたのが劉備だったのです!!

 

 

張世平・蘇双は劉備を見て、

「この人は将来大物になる!」と感じたようで、

 

黄巾賊に物資を奪われたことを考えれば、

劉備に資金援助をした方が遥かに世の中の為になると考えたのです。

 

 

 

劉備にとっても今の乱れた世を正したいと考えていたのは事実でしたが、

貧しかったことから資金面で悩んでいました。

 

劉備も「棚から牡丹餅」とも言わんばかりに、

二人から資金援助を受けることとします。

 

 

「ただ今はお返しするものが何もない・・・」

という劉備に対して、

 

「出世払いでいいから!」と言った感じで、

劉備に対して惜しみもなく援助したそうです。

劉備 -流浪の果てに皇帝まで上り詰めた英雄-

劉備が獲得したお金以上の存在

張世平・蘇双に資金援助を受けたお陰で、

兵士・武器・馬・食糧など戦う為に必要な物を揃えることができるのですが、

 

劉備が獲得した本当に大きなものと言えば、

間違いなく人材だったと思います。

 

 

何故なら劉備が資金を使って雇った人物の中に、

関羽・張飛という大物が潜んでいたのですから・・・

 

 

三国志演義の影響もあってか、

当淵の誓いなんてドラマチックな出会いを想像してる人もいるかもしれませんが、

 

現実問題そんなことないですからね。

 

 

始まりは張世平・蘇双の資金を使って雇った中に、

関羽・張飛がいたに過ぎません。

 

 

もっと言ってしまえば、

簡雍・田豫なんかもそうなってしまいますが、

 

もしかしたら田豫は幼過ぎたので、お金の関係ではなかったのかもしれません。

 

多分少年レベルぐらいの若さだったはずですから・・・

 

でも年老いた親がいたので、

親の為にお金が必要で雇ってもらったといえばそうかもしれませんね。

 

 

とにかく劉備&関羽・張飛の最初の出会いは、

お金が繋いだ縁だったのです。

 

ここから苦楽を共にしていく中で、

兄弟のような関係になっていったというのが正直な所ですね。

 

 

「まさにあの日、あの時、

あの場所で君に出会えなかったら・・・」みたいな感じだと思います。

 

これは冗談ではなく本気でそう思ってますね。

 

 

もしもあのタイミングで張世平・蘇双の資金援助がなかったら、

劉備と関羽・張飛が出会わなった可能性は普通に高かったのではないかと・・・

 

だからこそ張世平・蘇双の二人は、

結果的にお金以上の者を劉備に与えたのは間違いないと思います。

劉備を「奇貨」と判断した先見の明

張世平・蘇双から見た劉備は、

まさに奇貨だったのだと思いますね。

 

 

そもそも奇貨の由来は、

 

史記「呂不韋りょふい伝」に出てくる言葉で、

珍しい物や掘り出し物といった意味になってます。

 

 

呂不韋ももともと韓の豪商だったんですが、

 

趙の人質になっていた秦国の公子である子楚しそを、

たまたま街で目にしたことに始まります。

 

 

子楚は秦王であった昭襄王の太子(後継者)である安国君の子供でしたが、

 

子楚の母親である夏姫が安国君からの寵愛を無くしていた為に、

見捨てられた形で趙に人質に出されていますからね。

 

勿論母親と共に・・・

 

 

また趙での扱われ方もひどい状態だったのですが、

そんな時に呂不韋は子楚を見つけたわけですね。

 

 

 

呂不韋は子楚を大きな掘り出し物だと判断し、

今まで貯め込んだ資金を惜しみなく子楚の為に使いだしたしたのです。

 

その甲斐あって昭襄王が亡くなった後に、

安国君が王座を引き継ぐことになるのですが、

 

安国君は孝文王に名を改め、太子には子楚がおかれる事になります。

 

 

子楚が太子になったことにより、

 

呂不韋は投資した何倍ものお金を手に入れただけでなく、

大きな権力までも手中に収めたのでした。

 

まさしく呂不韋にとって子楚は、

奇貨であったわけです。

 

 

 

キングダムなんかでも呂不韋は凄い権力の持ち主として登場してますので、

今では少し馴染み深いキャラクターかもしれませんね。

 

キングダムついでに述べると、

子楚は始皇帝(嬴政えいせい)の父親になります。

 

 

呂不韋がいなければ嬴政が秦の跡継ぎになることはなかったでしょうし、

天下統一はもっと先の未来になっていたことでしょうね。

 

だからこそ呂不韋は絶大なる権力を持つに値するだけのことを、

実際にしていたということになるわけです。

張世平・蘇双が劉備に投資した判断材料

そもそものお話なんですが、張世平・蘇双は、

「劉備を一目見て只者ではない!」と判断したと記録に残っているわけですが、

 

ここで不思議に思わなかったですか!?

 

 

たまたま見た無名な青年に対して、大金を投資するでしょうか!?

 

確かに一目見て普通の人と違うように感じる事はあるとは思いますが、

私ははっきり言ってそうではないと思っています。

 

 

当時の劉備は劉元起りゅうげんきの世話になっており、

盧植に弟子入りしたことで、公孫瓚とも知り合っていました。

 

 

盧植は既に漢王朝で活躍した人物であり、

黄巾賊討伐の際は漢王朝より平定の命を受けて活躍しています。

 

一方の公孫瓚はというと、劉備と張世平・蘇双が出会った当時、

劉備がいた涿県の県令に就任していました。

 

 

そんな盧植や公孫瓚との繋がりがあったことが、

張世平・蘇双の投資対象になったのではないかと思うわけです。

劉備の将来性を見抜いて、実子と同じ待遇をした劉元起

張世平・蘇双のその後

劉備は大変な苦労をしながらも、最終的に皇帝まで昇り詰めるわけですから、

張世平・蘇双には先見の明があったわけです。

 

それはまさに呂不韋に匹敵するほどだったと思われます。

 

ただ残念ながら張世平・蘇双についてのその後の記録は一切残っていません。

 

 

もし張世平と蘇双が長生きをしていて、

 

益州の地にいる劉備を訪ねて行っていたならば、

何倍もの報酬を間違いなく劉備から頂いていたことでしょう。

 

 

しかし劉備が皇帝になったのは、

旗揚げしてよりだいぶ時間が経っている時なので、

 

年齢的な事も考えると、

二人は既に死亡していると考える方が自然だと思いますね。

 

 

二人の年齢は記録として残っていない為に推測するしかありませんが、

劉備より年下ということはまずないでしょう。

 

また張世平・蘇双は、馬商人として豪商にまで昇り詰めているわけですから、

それなりの年を重ねているというのが普通だと思います。

 

 

劉備が投資してもらった時の年齢は、おおよそ20代前半なのに対して、

劉備が皇帝どころか、益州を手に入れたことすらかなり後のお話です。

 

だから当時の寿命を考えると、

亡くなっていると考えた方が自然ということに行きつくわけでして・・・

 

54歳で亡くなった諸葛亮でさえ、

長生きした方だと言われる時代でしたからね。

 

 

もし陶謙の跡を継いで徐州牧になった時に、

劉備からお礼を受けていたならば話は別だと思います。

 

 

でももしそうなら、

張世平・蘇双はきちんと報われたことになるわけですから、

 

「そうであったらいいのに・・・」とは思ってしまいますけど、

そのあたりはあくまで想像の域になってしまいますね。