中国の歴史上、「悪女」と呼ばれる女性は何人も存在しますが、

 

賈逵の孫であり、賈充の娘であった賈南風かなんぷうは、

「三国時代で最大の悪女」といえた女性かもしれません。

 

 

ちなみに賈南風が幼少の頃に蜀が滅んでおり、

蜀を滅ぼした魏もそれから間もなくして司馬炎によって滅ぼされていますが、

 

賈南風の悪女ぶりが爆発するのは、

晋が呉を滅ぼした(280年)前後からの話であったりします。

 

 

正確に言うと「魏」「呉」「蜀」に分かれて争っていた三国時代でもなく、

 

晋が中華統一を果たした後の時代であるといったような、

年代的な突っ込みはなしでお願いします。

賈充の三女、賈南風(かなんぷう)

賈南風は、晋の功臣であった賈充の三女として誕生してます。

 

ちなみに司馬攸に嫁いだ賈荃が長女で、

次女に賈濬で、妹に賈午という女性がいたような構成ですね。

 

 

四人とも女性の名前が現在に伝わってるというのは、凄い事だと思います。

 

それだけ三女であった賈南風が、

衝撃的な女性であった可能性が高いからと言えると思います。

 

賈充が晋の功臣であったというだけでは、司馬衷の妻であった賈南風は残っていたとしても、

他の三人の娘の名前は残っていなかった可能性が高かった気がします。

 

 

 

ちなみに賈南風の母親は郭槐かくかいといいますが、

賈充が再婚した女性であり、賈充と郭槐にとっては長女にあたります。

 

ただ賈南風の二人の姉である賈荃・賈濬は、

賈充の前妻であった李婉りえんとの間に生まれた子供なので、「賈南風とは母親が違う」という事になります。

 

 

また賈南風は決して「美しい女性」というわけでなく、

背が低く、肌の色も黒く、お世辞にも「美女」と言えるような女性ではありませんでした。

賈充 -魏帝曹髦殺害の犯人-

司馬衷の妻選び

ある時に司馬炎が、司馬衷しばちゅうの嫁探しをしていた際に、

衛瓘えいかんの娘と賈充の娘が候補に持ち上がります。

 

 

衛瓘の娘は、「色白な上に美しい女性だった」といいます。

また美貌だけでなく賢い女性でもあったのです。

 

司馬衷が好きな方を選んでよかったのなら、おそらく衛瓘の娘を嫁に選んでいたことでしょう。

 

 

しかしこの時代は自らの遺志で夫(旦那)を選ぶことが困難な時代で、

女性は政略結婚として利用される事が大半でした。

 

 

賈充は司馬一族にとっては大功ある身であったため、

周りの者達のほとんどが、賈充の娘であった賈南風を推したといいます。

 

それにより賈南風が衛瓘の娘を差し置いて、司馬衷の妻に選ばれる事になったわけです。

この時の賈南風は僅か17歳だったといいます。

司馬衷の廃太子を防いだ賈南風

司馬炎の後継者筆頭であった司馬衷ですが、

もともと司馬衷には司馬軌(司馬炎の長男)という兄がいました。

 

しかし司馬軌が二歳で早世したために、

年齢的にも自然と司馬衷が後継者の最有力候補になっていたわけです。

 

 

しかし司馬衷があまりにも頭が悪く、

誰の目から見ても皇帝の器をもった人物には見えなかったといいます。

 

その為に、衛瓘を筆頭に多くの者達が、

「司馬衷から太子を代えた方が良いと思われます。」と強く訴えていました。

 

 

ただ司馬衷の母である楊艶ようえん(楊皇后)は、司馬衷を溺愛しており、

司馬炎に対して「司馬衷を太子から外さないで欲しい!」と嘆願した話も残っています。

 

そして楊艶の嘆願もあってかは不明ですが、

結果として司馬衷は太子から外される事はありませんでした。

司馬衷へのカンニング

司馬炎は楊艶からの嘆願もありはしましたが、

「本当に司馬衷が自分の跡を継いで、国を守っていけるかどうか?」が心配になり、

 

現在の天下の情勢にあった質問が書かれた紙が、司馬衷に渡されたことがありました。

 

この行為が司馬炎にとってどういう意図があったのかというと、

司馬衷が自分の跡をきちんと継げる人物かどうかを試験したわけです。

 

 

しかしその話を聞いた賈南風は驚きます。

司馬衷がまともな回答ができない事を、賈南風は見抜いていました。

 

つまり夫の無能さをよくわかっていたわけです。

 

 

だからこそ夫の為に賈南風が一肌脱いだのです。

 

そもそも夫が太子から外されてしまえば、

賈南風もたまったものではないというのが正直な所だったことでしょう。

 

 

そこで賈南風は学者を集めてその質問を解かせたわけです。

 

ただ賈南風は、完璧すぎる解答にならないようにだけ注意していました。

何故なら完璧すぎると逆に怪しまれることを知っていたからですね。

 

つまり賈南風の理想は、七割から八割程度の解答を求めたのです。

 

後はそれを自らの筆跡として、司馬衷に書き写させたわけです。

 

 

そうとは知らない司馬炎は、司馬衷の解答に大変に喜び、

司馬衷が司馬炎の太子の座から外されることもありませんでした。

 

完全に賈南風の罠にはめられた形となった感じですね。

側室への異常な嫉妬

賈南風は最初にも述べたように不細工な女性でした。

 

あくまで晋にとって大功のある賈充の娘というだけで、

司馬衷の妻に運よくなれた女性にすぎません。

 

そんな賈南風は司馬衷の側室に対して、嫉妬心が抑えきれないでいました。

そしてそれに恐怖を覚えたのが夫の司馬衷でした。

 

 

ある時に司馬衷の側室である女性が、お腹に宿した事がありました。

 

賈南風自身は司馬衷との間に男子がいなかったこともあり、

お腹の子ごとその側室を殺害してしまうこともあったようです。

 

 

しかしこれを知った司馬炎は大変に激怒し、

金墉城に賈南風を幽閉してしまいます。

 

しかし賈充の娘ということもあってか、簡単に罪を許される事になったのです。

司馬衷の即位&賈南風の「皇后」就任

司馬炎が中華統一を成し遂げてから十年後の290年に、

晋の皇帝であった司馬炎が崩御してしまいます。

 

これにより司馬衷は第二代皇帝となり、賈南風もまた「皇后」になったのでした。

 

しかし賈南風が皇后へなったことで、

晋王朝の土台が揺らぐ程の混乱を与えていくこととなります。

 

 

ちなみにですが賈南風が側室を殺害した際に幽閉されたのですが、

 

賈南風の罪が許されるように司馬炎に働きかけたのが、

楊艶が死んだ後に司馬炎の正室となっていたの楊芷ようし(楊艶と同族)だったのです。

 

 

司馬炎の正妻という立場だったことから、楊一族は強い力を持っていました。

 

ただ賈南風は自分を助けるために働きかけてくれたのが楊芷だと知らず、

「生意気で、うるさい奴だ!」と考えていたようです。

 

 

そこで賈南風は、楊芷の一族から権力を奪おうと画策し、

司馬衷の弟である司馬瑋しばいを抱き込みました。

 

そして「司馬衷様から太子を変えた方が良い!」と意見したことがあった衛瓘えいかんであったり、

司馬懿の子であった司馬亮を殺害してしまいます。

 

そして楊一族の力が薄れさせた所で、最終的に皆殺しにしてしまいます。

 

 

ちなみに賈南風が衛瓘の一族を殺害したのは、

賈南風の父親である賈充の影響もあったからだと言われています。

 

 

賈充は太子を代えるように進言した衛瓘を深く恨んでおり、

 

「衛瓘の野郎が私の家を滅ぼそうとしおった。 

いつか衛瓘の一族を滅ぼしてやろうぞ!」と賈南風に語ったことがあったといいます。

 

 

そして「楊芷の最後がどうだったか?」というと、

 

皇太后の立場から庶民にまで落とされ、

過去に賈南風が幽閉されたことがある金墉城に幽閉しただけでなく、

金墉城で食事を全く与えなかった事で、八日後に餓死してしまったといいます。。

 

 

賈南風はこれだけに止まらず、

味方してくれた司馬瑋が力を持つことを恐れて殺害してしまいます。

 

賈南風は「皇后」という立場を最大限に活かして、次々に粛清を続けていくのでした。

太子殺害事件

299年には司馬衷の息子はほとんどが死んでしまっており、

生き残っていたのは司馬遹しばいつだけという状態でした。

 

しかし賈南風はそんな司馬遹を太子の座から引きずり落としたのです。

 

 

もともと司馬遹に関しては、

賈南風の母親である郭槐かくかいは、賈南風に男子がいなかったことから、

司馬遹を養子として迎えるように薦めていましたが、

 

賈南風はどうしても司馬遹が好きになれず、

母親の言葉に耳を傾ける事はなく、最終的には上のような行動にでたわけですね。

 

 

そして司馬遹が太子に戻ろうと考えているう噂を耳にすると、

賈南風は司馬遹を殺害してしまうのでした。

賈南風の最後

司馬遹が太子に戻ろうとした噂の裏側には、実は裏で糸を引いていた人物がいました。

それは司馬懿の第九子である司馬倫とその腹心であった孫秀の二人です。

 

 

二人は司馬遹が「皇太子復位」を企んでいるという噂をわざと流させ、

 

賈南風が司馬遹を排除した後に、

賈南風を捕らえて政権を掌握してしまおうと考えていたわけです。

 

 

また司馬倫と孫秀の二人は、

司馬冏しばけい(司馬炎の弟)と、司馬肜しばゆう(司馬懿の第八子)にも、

賈南風排除を提案して協力関係にありました。

 

多くの者達を誅殺してきた賈南風でしたが、

最後の最後は司馬倫と孫秀に踊らされる形になったわけですね。

 

 

そして賈南風が司馬遹を殺害した事を知ると、

前からの計画通りに賈南風を捕らえる事に成功します。

 

これにより賈南風の一族は皆殺しにされてしまうのでした。

 

ちなみに賈南風の最期は、

金粉が混じった毒酒を無理やりに飲まさる形で最後を迎えたといいます。

 

 

しかし賈南風によって乱れに乱れた晋は、

「八王の乱」という司馬一族同士で争い、更に弱体化していきます。

 

そして中華統一を果たした晋もまた、

魏呉蜀と同様に滅亡への一途を辿っていくことになるのでした。

 

 

そして581年にが中華を統一するまで、

五胡十六国時代として戦乱の世は続いていく事となります。