袁紹軍で軍師的役割を果たしたのが、

田豊・沮授・逢紀・審配・郭図・辛評・辛毗・許攸で、

 

猛将といえば顔良・文醜といったイメージがどうしてもあります。

 

 

実際は、荀彧・郭嘉とかも袁紹に仕えてはいたんですが

愛想尽かして曹操の元に走っていますし・・・

 

まぁ言い出したらきりがないほどに

袁紹の元には優れた者達が多く仕えていたのは事実です。

 

そんな袁紹軍の中で、個人的にですが、

一番の戦上手だと思っている人物「麹義きくぎ」を今回は紹介したいと思います。

麹義(きくぎ)の出身地の謎

麹義は出身地がはっきりとしておらず、

そもそもどこから来た者か資料上ははっきりしていません。

 

ですが・・・・

麹義の先祖で前漢に仕えた鞠譚きくたんなる者がいたということが分かっています。

 

鞠譚はもともと平原出身でしたが、

難が自らの身に降りかかるのを恐れた際に、涼州の西平郡に移ったそうです。

 

 

そしてその地で「姓」を「鞠」から「麹」に変更し、

麹譚と名乗ったという事が、

 

三国志の時代よりだいぶ後ですが、

1084年の宋(北宋)の時代に編纂された「資治通鑑しじつがん」に記載されています。

 

そしてこの宋(北宋)の時代まで、

多くの麹一族は宮廷で活躍し続けたとされています。

 

この点を考えても麹義の出身は、おそらく涼州西平郡の可能性が高いと思われます。

麹義の出身地が涼州である第二のヒント

 

麹義の先祖を追った場合に、涼州西平郡の可能性が非常に高いとは思いますが、

最低でも麹義の出身が涼州である可能性は他にもあります。

 

それは麹義は野戦の兵の扱い方を熟知しており、

羌族という異民族の戦法を身につけていたことが挙げられます。

 

 

これは後で説明をしますが、

 

公孫瓚の主力部隊であった白馬隊「白馬義従」を打ち破った時に、

この羌族の戦法を惜しみもなく使っています。

 

そのあたりからも、麹義が涼州の出身である可能性が非常に高いのです。

 

おそらく麹義は、涼州から流れて冀州まで辿り着いたのでしょう。

そして当時冀州を治めていた韓馥に仕えたのだと思われます。

匈奴の於夫羅を撃退

於夫羅おふらは、もともと匈奴の単于(王)の息子でしたが、

父親が部下に殺され、色々回り回って漢王朝に仕えている立場にありました。

 

 

当時の匈奴は漢王朝と親密な関係にあったこともあり、

 

黄巾の乱がおこった際は、於夫羅の父親であった羌渠きょうきょが、

於夫羅を派遣して漢王朝を支援したりする仲でした。

 

 

しかし父親が殺されてからというもの、

父親の後釜を継ぐにしても部下がついてこなかったのもあり、

 

匈奴に帰りたくても帰れないような状況で、

中国に半ば帰化しているような状態になっていたというわけですね。

 

そして袁紹が反董卓連合の盟主についた時には、

袁紹軍として董卓らと戦っています。

 

 

のちに於夫羅が袁紹に反旗を翻しますが、この討伐に命じられたのが麹義でした。

(※袁紹が韓馥から冀州を奪った際に、麹義は袁紹に仕官しています。)

 

騎馬戦術が得意な於夫羅でしたが、

麹義によってあっさりと撃退されてしまったわけです。

 

この時の詳細は記録として残っていませんが、羌族の戦術を駆使して戦ったと思われます。

 

 

あくまでこの戦いに関しては推測しかできませんが、

 

於夫羅と同じく騎馬戦術を得意としていた公孫瓚との戦いを見れば、

於夫羅よりも兵力的にも格上の相手ですし、この時の戦いの様子が少なからず見えてくるでしょう。

麹義が大活躍した界橋の戦い(袁紹VS公孫瓚)

公孫瓚と袁紹が遂に大激突を果たす時がきます。

 

この戦いは界橋の戦いと呼ばれる事になるのですが、

ここで公孫瓚の白馬隊「白馬義従」を完膚なきまでに叩いたのが麹義でした。

 

当時白い馬というだけで普通の馬よりも威圧感があるものでしたが、

公孫瓚はその白馬を数千頭集めていたといいます。

麹義は、800人の槍と盾を持たせた兵を先頭にし、

1000人の強弩隊を後に続かせました。

 

公孫瓚は、麹義隊の兵士が少ないとみるや、

数千の白馬義従を中心に5万の騎馬&歩兵隊を突撃させます。

 

 

公孫瓚の騎兵部隊が突撃を開始すると、

麹義は槍盾部隊の兵士にしゃがませて盾に隠れさせます。

 

公孫瓚隊は伏せた兵目掛けて騎馬の上から弓矢を放ちますが、

全て盾に跳ね返される始末。

 

 

そして目先まで騎馬隊が突撃してきた瞬間、

一斉に立ち上がらせて、大声で騎馬隊に突撃させました。

 

それからすぐに後方から強弩を連射。

 

これにより公孫瓚隊に大被害を与え、

公孫瓚臣下であった厳綱げんこうを討ち取ることに成功します。

 

そして麹義はその勢いのまま、公孫瓚の陣営を次々に攻略していきます。

 

 

戦線を維持できなくなった公孫瓚の部隊は、

壊滅状態に陥って離散する始末。

 

その後、麹義は公孫瓚を易京まで追い込んでいく事に成功しました。

 

これにより公孫瓚の勢力は一気に弱体化し、

後は滅びの道へ一直線に歩むことになったわけです。

公孫瓚が率いた白馬隊「白馬義従」の栄枯盛衰

公孫瓚の逆襲

 

公孫瓚を撃破して、易京まで追い詰める大功績を上げた麹義でしたが、

公孫瓚は易京にかねてより堅固な城を築いていました。

 

 

この城には公孫瓚も大変自信を持っており、

「兵法には百の城楼は攻撃しないものとされているが、

易京の城の城楼は千重にもなっている。

 

また十年分の食糧を貯め込んでおり、長く籠城し続ける事も可能だ!」

と公孫瓚が言った話も残っています。

 

実際公孫瓚が自信を持つ通り、麹義が何度攻めても攻め落とせず、

一年の月日が経ってしまいました。

 

その上食糧が底を就いた為に撤退を開始。

これを待っていた公孫瓚は追撃を開始し、大いに麹義を破ります。

麹義の最後

公孫瓚に最終的に敗れてしまったとはいえ、

 

麹義が公孫瓚の誇る「白馬義従」を倒して壊滅的被害を与えた事は事実であり、

公孫瓚を易京まで追い払った功績は袁紹にとって大きなものでした。

 

しかし麹義は、この時の功績を鼻にかけたために、

袁紹によって処刑されてしまったそうです。

 

 

三国志正史にはこのように簡単に書かれていますが、

鼻にかけていたから処刑してしまったというのは正確ではない気がします。

 

麹義の部隊は非常にまとめられた部隊であり、

袁紹軍の他の部隊とは異彩を放っていたことが原因だったと思われます。

 

麹義とその部隊が袁紹軍の中で大きな力を持っていけば、

袁紹軍の中で揉め事が発生するのが目に見えていたんじゃないでしょうかね。

 

その為に麹義を処刑し、

麹義が率いていた部隊を吸収を目論んだと思われます。

 

 

そう思う一つの理由として、

数少ない資料からもその可能性が見えてくるからです。

 

ただ麹義が処刑された事で、

麹義が率いていた部隊の者達は袁紹に従う事はなく、敵であった公孫瓚に寝返っています。

 

 

まぁ当然の話でしょうね。

 

自分達の信頼を置いていた主人が殺されたのですから、

殺した相手に何故従わないといけないのかというのが正直な所だと思います。

 

ただ公孫瓚は元主人であった麹義によって弱体化させられており、

公孫瓚と共に滅ぼされてしまうのだから皮肉なものです。

三国志演義での麹義

横山光輝三国志(6巻180P)より画像引用

 

麹義は公孫瓚を界橋の戦いで大いに破って、

最終的に易京まで追い詰めるという功績を上げていますが、

 

三国志演義では、麹義の評価は最低限でしかされていません。

 

 

確かに袁紹軍の先鋒隊として厳綱を討ち取るなど、

正史での実績も考慮されてはいるんですが、

 

界橋の戦いで、公孫瓚軍の趙雲に討ち取られているという不遇ぶり。

趙雲の華々しいデビュー戦の餌に使われた感じが・・・

 

「もう少しどうにかならなかったのかなぁ」と思わざるをえませんね。

麹義の一族の可能性がある麴演

韓遂といえば、

涼州を中心に何度も漢王朝に反乱を起こした人物で、

 

馬超らとともに起こした潼関の戦いは、

曹操軍を大いに苦しめるほどの大規模なものでした。

反乱に生涯を捧げた男「韓遂」

 

潼関の戦いは、曹操軍の離間の計にひっかかり、

馬超と韓遂が仲違いしたことで決着がついてしまいますが、

 

韓遂は懲りずに何度も何度も反乱を起こします。

 

そんな韓遂でしたが、

最後は韓遂自身が部下の裏切りにあった殺害されてしまいます。

 

韓遂を殺した犯人が、

曹操を恐れた麴演きくえん(涼州の西平郡出身)と蒋石しょうせきでした。