三国時代に悪逆非道の限りを尽くした人物と言えば、
まっさきに思い浮かぶのは誰がなんといおうと董卓かなと思います。
黄巾の乱勃発後、董卓の登場で世の中は乱世へ加速し、
色んな意味で乱世の舞台を用意したような人物でもあります。
ここでは、そんな董卓の生涯について見ていきます。
目次
若かりし頃の董卓(とうたく)
董卓は涼州の出身であり、
若い時の董卓は若武者といっていいほどの人物でした。
涼州という土地柄もあり、多くの異民族の人達と接する機会も多く、
そんな中で董卓は成長していくのです。
そういうこともあって、董卓は騎術・弓術を得意としており、
騎乗した状態で、両手で弓を弾けたそうです。
「両手で弓を弾くって普通に考えるとどうやって弾くんだよ?」
って思うような表記なんですが、
まぁ普通に考えて両利きだったってことでしょうね。
騎乗した状態でどちらの構えでも弓を弾けるというのは、
戦場では確実に役立つものであるということは間違いないので、
董卓がどれほど武芸に優れていたかを証明できる話だと思います。
異民族と漢民族は董卓にとって同じ存在だった?
董卓は涼州で生まれた事で異民族と接する機会が多く、
それが当たり前の環境に身を置いていました。
その為、民族が違うからと異民族だけを蔑むことはなく、
羌の族長らが面会を求めた時には、
董卓は田畑を耕すために用いていた牛を殺して、その肉を振舞っています。
董卓の心意気に族長は心から感激し、
家畜や野獣を御礼として千頭送ったたそうです。
漢民族らにとって、異民族は漢民族に仇なす事も多く、
身なりや食生活の違いからも異民族を下に見る事が多かった時代でした。
しかし董卓にとっては、どちらが上だとか下だとかいうのはなく、
当たり前だと思う事を当たり前にやっていただけでしょうね。
強さと優しさを兼ね備えた武人
涼州で逞しく成長した董卓でしたが、
漢王朝に採り立てられ、北方の異民族討伐を任されるようになります。
董卓は漢王朝の期待に応えて大勝。
また異民族の中でも董卓と関係が深かった羌が反乱を起こすと、
この討伐にも任じられているんですが、この時も大勝しています。
この功績から董卓は郎中に任じられた上で、褒美として絹九千匹が与えられたのですが、
これらの受け取った褒美は、全て部下に分け与えていたといいます。
部下達もそんな董卓を慕ってついていくわけですね。
その後も異民族討伐で活躍を続けた董卓は、確実に出世していきます。
黄巾賊討伐での失態
184年に黄巾の乱が勃発すると、
異民族討伐で活躍した董卓も討伐の一員として要請されます。
しかし、異民族討伐で多くの成果を出した董卓ですが、
黄巾賊相手に苦戦を強いられて敗北。
これにより董卓は免職されてしまうわけです。
董卓にとって異民族と漢民族での戦いは、様子が違っていたのかもしれませんね。
辺章・韓遂の乱討伐で復職
黄巾の乱討伐での失態で罷免させられた董卓ですが、
黄巾の乱と同じ年に起きた涼州での辺章・韓遂の乱が起こると、
先零羌も呼応して反乱に加担する始末。
これにより董卓は速攻で復職して、
異民族討伐に長けた董卓がとりたてられることになりました。
そして董卓は張温指揮下として参加するわけですが、
この戦いは張温・董卓は大勝し、董卓は黄巾賊戦での汚名を晴らすことに成功。
その後、調子に乗って追撃した際に、
逆に辺章・韓遂に包囲されて蹴散らされてしまうんですが、
董卓を追っていた敵兵を川を堰止め、川を氾濫させて敵の攻撃を振り切っていたために、
董卓が率いた部隊だけはほとんど被害は受けなかったようです。
このあたりの対応を見る限りでも、
なかなか優れた判断で臨機応変に董卓は対応してます。
王国・韓遂の乱討伐に任じられる
それからしばらくした188年、
韓遂は今度は王国と組んで反乱を起こしますが、
この時に馬騰(馬超の父)が、後漢を裏切って韓遂側に味方してます。
これに対して後漢側は、
皇甫嵩・董卓の両名に討伐を任せたのですが、
二人は意見の違いから対立し、皇甫嵩がほとんどの手柄を独り占めする形になり、
皇甫嵩と董卓の間に大きな亀裂が発生する事になってしまいます。
ちなみに皇甫嵩と董卓との間に大きな亀裂が生まれるまでのいきさつは、下の記事内で触れています。
この反乱討伐でほとんど手柄を上げる事ができなかった董卓は、
朝廷より董卓が率いていた兵を皇甫嵩に渡すように言われるわけですが、
董卓は色々な理由をつけて兵を渡すことはありませんでした。
一歩間違えたら反乱容疑かけられたと思うんですけど、
董卓に背かれても厄介だと思っていた後漢側は董卓を并州刺史に任じて、
そのかわりに兵士を引き渡すように再度要請。
ですが、并州刺史は一応受けるけど、「兵は返さないよ」の一点張りでした。
とにかくこの時代、宦官が朝廷を牛耳っており、
適当な理由をつけて殺される事は日常茶飯事に行われていた事もあり、
王国・韓遂の乱で、大した手柄を立てれなかったこともあって、
「兵を今奪われることは危険だ」と董卓は直感的に察したのかもしれませんね。
董卓にとっての大きな転機
蒼天航路(5巻74P)より画像引用
董卓が頑なに断っている最中に、
後漢王朝で皇帝であった霊帝が死去するという事件が起こります。
この時に、跡継ぎ問題で宦官と大将軍であった何進(外戚)が争うわけですが、
結果的に何進は殺され、
宦官の多くが殺されるという共倒れ状態になってしまいます。
その際に、殺される事を避けるために、
少帝(劉弁/何進の妹の子)と献帝(劉協)を連れ出した宦官から、
二人を奪い返したのが董卓でした。
何故董卓が涼州ではなく、洛陽にいるかというと、
大将軍であった何進から助けるように要請があったからですね。
まぁこの時に呼び出されたのは董卓だけでなく、
丁原・孫堅など多くの者が地方より呼び出されていました。
とにもかくにも、少帝・献帝を救い出したことにより、
董卓に一気に流れが傾くことになります。
ただこの時の董卓の兵力は3000人から4000人程度しかおらず、
この状態では他の者達を抑える事はできないと、ここで奇策を弄します。
この奇策によって多くの者達が、
董卓軍は20万人以上の兵がいると錯覚を起こさせたといいます。
何故少なかったかと言うと、
霊帝が死去した際に何進から呼び出された董卓でしたが、
洛陽へ向かう為に、自分の兵をやっと皇甫嵩に受け渡していたからですね。
董卓が行った奇策とは?
少帝・献帝を救い出した董卓でしたが、
洛陽へ入場するも、自分自身の兵があまりに少なすぎる事に悩んでいたようです。
そこで、洛陽へ入場していた兵士の一部を、夜のうちに密かに城の外に脱出させ、
翌日に「董卓軍が臣下の者がただいま到着しました」
と言って複数回それを繰り返させたといいます。
そういう裏事情を知らない洛陽にいた者達は、董卓軍は20万人以上の兵がいると噂したようです。
ただ周りをうまく騙したからと、
実際の兵力はたかが知れているのが現状だった為に、
死んだ何進の兵士達を吸収することに成功したかと思うと、
丁原に仕えていた呂布を裏切らせて、丁原の兵を吸収する事に見事に成功。
これにより実質的に兵の確保に成功した董卓は、
恐れるものが何もなくなり、
少帝を廃して、献帝を新帝として据える事を勝手に決めたわけです。
董卓のこれらの行動に逆らえるものはほとんどおらず、
これからというもの、董卓の独裁政治がおこなわれていく事になります。
反董卓連合の結成&長安への遷都
蒼天航路(5巻176P・177P)より画像引用
董卓の振舞いに我慢ができなくなった各地の群雄(袁紹・袁術・孫堅等)は、
橋瑁の呼びかけに応じて反董卓連合を結成。
ちなみに三国志演義では曹操が呼び掛けた事になっていますが、
あくまで三国志演義の話です。
正史に比較的近い蒼天航路も曹操と書いてますけど、橋瑁です!
話を戻すと、この呼びかけに多くの群雄が参加し、
袁紹を盟主とした反董卓連合を結成。
そこで董卓は反董卓連合の士気を下げる意味でも、
歴代皇帝の墓を暴いたりして、
馬得るだけの金品を奪って洛陽から長安に遷都してしまいます。
その後も洛陽で反董卓連合を迎え撃っていた董卓は、
優位に戦いを展開していきますが、
孫堅との戦いに敗れた董卓は、
洛陽の町を焼き払って長安へ完全に撤退していったようです。
洛陽と献帝奪還を果たせず、洛陽が廃墟となってしまった連合側は、
次第に仲違いを始める形で反董卓連合は解散してしまいます。
ちなみに反董卓連合の呼びかけを行った橋瑁は、
仲違いの中で殺害されるという始末。
董卓が長安に遷都した理由として、
自分自身が慣れ親しんだ涼州に近いという事で都合が良いという理由もあったのでしょうね。
呂布の裏切り&董卓の最後
蒼天航路(7巻62巻)より画像引用
洛陽から長安へ遷都し、反董卓連合は勝手に解散してくれるわで、
董卓の暴政は更に加速していく事になります。
ちなみに董卓は「董卓五銖銭」と呼ばれる貨幣の発行をしたことがあるのですが、
それは董卓が洛陽から長安へ遷都したこの時期に実行しています。
そんな董卓でしたが、最後はあっけない最期を辿ることになります。
かつて丁原から裏切らせて自分の養子としていた呂布が、
董卓をどうにか排除したいと考えていた王允と手を組んで殺害してしまうわけですね。
呂布が養子であった董卓を殺害した理由として、
主に二つのことがあげられます。
- 呂布が小さい過ちを起こした際に、董卓によって殺害されようとしたことを恨んでいたため。
- 呂布が董卓の侍女と通じていたため。
そこにつけ込んだのが王允だったのでしょう。
ちなみに三国志演義では、
この侍女の話から絶世の美女「貂蝉」が誕生しています。
董卓死後
董卓が呂布により殺害された後、
董卓の一族はことごとく殺害されてしまったようです。
董卓に大きな恨みを抱く者も多く、
董卓の母親も90歳という高齢であったにもかかわらず、
容赦なく殺害されてしまいました。
また、董卓のへそに火をつけた所、
脂肪が多くあったこともあり、数日間燃えていたと言われています。
また董卓の暴政に苦しめられていた民衆は、
董卓の死を大いに祝って宴会を開きまくった結果、
長安で売られていた肉や酒の価格が大きく上昇したほどだったといいます。
三国志を著した陳寿は、董卓を次のように評価しています。
「董卓は残忍・暴虐という道を極め、その凶行に対して比べるものがない」と・・・。