董卓(とうたく、字:仲穎)

董卓は後漢末の混乱を象徴する人物として、三国志の中でも特に有名な存在です。
後世の物語では、暴虐な独裁者として描かれることが多い董卓ですが、
その生涯を正史から追っていくと、若い頃から単純な「悪人」だったわけではありません。
むしろ若き日の董卓は、武勇に優れ、
異民族との交流にも長け、部下からも慕われた有能な武人でした。
涼州という辺境の地で培った武力と人脈を武器に、董卓は後漢王朝の武人として頭角を現していきます。
そして最終的には、皇帝を廃立し、自ら相国となって漢王朝の実権を握るまでに至りました。
しかし、その権力の絶頂は長く続きません。
最後には自らが登用した呂布によって命を奪われることになります。
まさに、後漢末の混乱を駆け抜けた波乱の人生でした。
そんな董卓ですが、涼州隴西郡臨洮県の出身ですが、
涼州は漢王朝の中心地である中原から遠く離れ、羌族などの異民族と接する機会が非常に多い地域でした。
そのような土地で育った董卓は、若い頃から羌族の有力者たちと親しく交流していました。
「魏志」董卓伝によれば、
董卓は若い頃に羌族の居住地域を訪れ、諸部族の豪族たちと広く親交を結んでいたといいます。
その後、董卓はいったん故郷へ戻って農耕生活を送ります。
すると、かつて交流した羌族の豪族たちが董卓のもとを訪れるようになりました。
そこで董卓は、彼らをもてなすために農耕に使っていた牛を殺し、宴会を開いてともに楽しみます。
董卓のこの心意気に感激した豪族たちは帰郷すると、それぞれ家畜を持ち寄りました。
その結果、董卓のもとには牛や羊など、合わせて千頭余りの家畜が贈られたといいます。
この逸話は、董卓が若い頃から異民族を単純に敵視していた人物ではなかったことを示しています。
むしろ、涼州という土地で生きていくために、
民族の違いを越えて人間関係を築くことのできる人物だったのでしょう。
弓馬に優れた武人
董卓は、単に人付き合いが上手かっただけではありません。
正史『後漢書』董卓伝には、董卓が「膂力過人」、
つまり人並み外れた腕力を持っていたと記されています。
さらに「双帯両鞬、左右馳射」と記載されており、
これは二つの弓袋を身につけ、馬を左右に走らせながら、左右どちらからでも弓を射ることができたという意味になり、
騎馬で走りながら、左右どちら側からでも弓を扱えるほどの騎射の技術を持っていた、ということです。
涼州では騎馬戦や弓術が重要な戦闘技術でした。
董卓はこうした環境の中で武芸を磨き、
羌族や胡族からも恐れられるほどの武人へと成長していきました。
武人として出世する
やがて董卓は州の兵馬掾となり、辺境の警備などに従事します。
その後、桓帝末年には六郡の良家子弟から選ばれて羽林郎となりました。
さらに中郎将の張奐に従って羌族の反乱を討伐し、戦功を立てます。
この功績によって郎中に任じられ、絹九千匹を下賜されました。
ここで非常に興味深い逸話が残っています。
董卓は、この褒賞として与えられた絹を自分のものにするのではなく、
ほとんどすべてを部下や兵士たちに分け与えたといいます。
戦場で命を懸ける兵士たちに利益を分け与えることで、董卓は彼らの信頼を獲得していきました。
後に董卓が強大な軍事力を持つようになった背景には、こうした若い頃からの人心掌握もあったのでしょう。
その後も董卓は広武令、蜀郡北部都尉、西域戊己校尉などを歴任しました。
一時は罪により免職されますが、再び朝廷に召され、河東太守などを務めました。
黄巾の乱での敗北
そして184年、後漢王朝を揺るがす大事件が発生します。
張角を中心とする黄巾軍が各地で蜂起したのです。
董卓も討伐軍の一員として派遣されました。
しかし、ここでは思うような戦果を挙げることができませんでした。
董卓は張角らの黄巾軍と戦いましたが敗北し、その責任を問われて罪に服することになります。
異民族との戦いでは数々の戦功を立ててきた董卓でしたが、黄巾軍との戦いでは苦戦したわけです。
ただし、董卓の軍歴全体を見ると、この敗北は一時的な挫折にすぎませんでした。
涼州の反乱で再び頭角を現す

同じ184年、今度は董卓の故郷でもある涼州で大規模な反乱が発生します。
北地郡の先零羌や枹罕・河関の反乱勢力が蜂起し、
北宮伯玉、李文侯、辺章、韓遂らがこれに加わりました。
さらに反乱軍は勢力を拡大し、三輔地方へ侵入するまでになります。
ここで朝廷は、涼州事情に詳しい董卓を再び起用しました。
董卓は中郎将となり、反乱鎮圧に向かいます。
その後、車騎将軍張温が大軍を率いて涼州へ派遣されると、董卓もその指揮下に入りました。
この戦いでは董卓も大きな功績を挙げます。
しかし、董卓の軍歴を語るうえで特に有名なのが、その後の危機からの脱出です。
董卓は望垣北で羌胡の大軍に包囲されました。
しかも食糧が不足し、進むことも退くことも難しい状況でした。
そこで董卓は一計を案じます。
自軍が魚を捕るために川を利用するように見せかけ、密かに川の流れをせき止めました。
そして敵に気づかれないうちに、その堰の下を通って軍勢を移動させます。
十分に距離を取ったところで堰を切ると、川の水が一気に流れ込みました。
後から追ってきた羌胡軍は川を渡ることができず、董卓軍は危機を脱することに成功します。
この戦いでは他の部隊が大きな損害を受けた一方、董卓の部隊はほぼ無傷で帰還したとされています。
こうした臨機応変な判断力も、
董卓が単なる猛将ではなく、軍事的な才能を持っていたことを示しています。
この功績によって董卓は前将軍となり、斄郷侯に封じられました。
王国・韓遂の反乱と皇甫嵩との対立

188年になると、涼州では再び大規模な反乱が起こります。
李相如、王国、韓遂らが反乱を起こし、馬騰もこの勢力に加わりました。
朝廷は皇甫嵩を派遣し、董卓もその討伐軍に加わります。
ところが、ここで皇甫嵩と董卓の間に大きな問題が生じます。
二人は軍事方針をめぐって意見を異にしました。
董卓は、涼州の事情に詳しい武人として独自の判断を持っていた一方、
皇甫嵩は朝廷から軍全体の指揮を任されていました。
最終的に皇甫嵩が主導権を握り、董卓の立場は次第に悪くなっていきます。
そして朝廷は、董卓が率いていた兵を皇甫嵩に引き渡すよう命じました。
しかし董卓は、これを簡単には受け入れませんでした。
朝廷は董卓を并州牧に任命し、その代わりに兵を皇甫嵩へ引き渡すよう求めます。
ところが董卓は、それでも兵を手放そうとしません。
これは後の董卓の行動を考えるうえで非常に重要な場面です。
董卓は長年、涼州の兵士たちと戦場をともにしてきました。
そして、この兵士たちこそが董卓にとって最大の政治的・軍事的基盤でした。
結果的に董卓は朝廷の命令に完全には従わず、兵を保持したまま動くことになります。
この判断が、後の董卓の運命を大きく変えていくことになります。
なぜなら、その直後に後漢王朝そのものを揺るがす大事件が起こるからです。
霊帝の死と何進の召還
189年、霊帝が崩御しました。
皇太子の劉弁が即位し、少帝となります。
しかし、幼い皇帝をめぐって外戚の大将軍何進と宦官勢力が激しく対立しました。
何進は宦官勢力を排除するため、各地の軍事勢力を洛陽へ呼び寄せます。
その一人として董卓にも上洛が命じられました。
董卓は軍勢を率いて洛陽へ向かいます。
ところが、董卓が到着する前に事態は急展開します。
何進が宦官たちによって殺害され、その後、袁紹らが宮中の宦官を大量に殺害しました。
その混乱の中、宦官の段珪らが少帝と陳留王劉協を連れ出して逃走します。
董卓はその二人の皇族を迎えに行き、北芒付近で保護しました。
こうして董卓は、皇帝と皇弟を手中に収めることになります。
わずかな兵力から洛陽の実権を握る
董卓が洛陽へ入った当初、彼の兵力は決して巨大ではありませんでした。
そこで董卓は、自軍を大軍に見せるための策略を用いたとされています。
この事は「魏志」董卓伝(裴松之注「九州春秋」)に残されている記録となりますが、
後に編纂された「後漢書」董卓伝では、本文に採用されている内容でもあります。
| 夜の間に兵を城外へ出し、翌朝、あたかも新しい援軍が到着したかのように入城させる。
これを繰り返すことで、周囲に董卓軍が実際以上の大軍であるように思わせました。 |
さらに董卓は、何進の残存兵力を取り込みます。
そして、丁原と対立すると、丁原の部将であった呂布を自陣営へ引き入れました。
呂布によって丁原が殺されると、その軍勢も董卓の支配下に入ります。
こうして董卓は、洛陽における軍事的優位を急速に確立していきました。
少帝を廃し、献帝を即位させる
董卓が次に行ったのが、皇帝の廃立です。
董卓は少帝劉弁を皇帝として不適格だとし、陳留王劉協を新たな皇帝に立てることを主張しました。
この時、反対した人物の中には盧植もいました。
しかし董卓は自らの軍事力を背景に押し切ります。
こうして劉協が献帝として即位しました。そして董卓自身が朝廷の実権を握ります。
ここから董卓は、単なる一地方の単なる武人ではなく、漢王朝そのものを左右する存在へと変貌していきました。
董卓はその後、太尉などの高位を歴任し、最終的には相国となりました。
さらに「入朝不趨」「剣履上殿」といった特別な待遇を与えられます。
これは通常の臣下とは明らかに異なる、極めて高い地位でした。
そして董卓は、自分に反対する者を排除し、朝廷の人事にも強く介入するようになります。
一方で、董卓の支配は単なる政治的独裁にとどまりません。
兵士たちが民家から略奪を行うこともあり、長安・洛陽周辺の人々に大きな負担を与えました。
かつて部下に褒賞を分け与えて慕われた若き武人は、
権力の頂点に立つと、次第に恐怖によって人々を支配する人物へと変わっていったのです。
反董卓勢力の結成

蒼天航路(5巻176P・177P)より画像引用
※実際に上記漫画の反董卓連合に参加した者達は一部正史の記録とは異なります。
| 反董卓連合に参加した諸侯 | |
三国志演義→18人(十八鎮諸侯)
|
正史三国志→13人
孔融・陶謙・馬騰・公孫瓚は不参加。 正確に述べると焦和(青州刺史)等も反董卓連合に立ち上がっています。
|
董卓の専横に対して、各地の諸侯が反発します。
190年、関東の諸勢力が董卓討伐を掲げて兵を挙げました。
ここは『三国志演義』との違いに注意が必要です。
演義では曹操が反董卓連合を呼びかけたように描かれますが、
正史では橋瑁が檄文を作って諸州郡に送ったことが、反董卓勢力形成の重要な契機となっています。
その後、袁紹らが兵を挙げ、董卓と対抗します。
この中でも特に董卓を苦しめたのが、長沙太守から挙兵した孫堅でした。
また劉備・関羽・張飛らが反董卓連合に参加した記録は残されてはいません。
そして曹操は袁紹指揮下として参加しています。
洛陽を捨て、長安へ
反董卓勢力が強大化すると、董卓は洛陽を維持することが困難になっていきます。
そこで董卓は献帝を連れて長安へ都を移すことを決断します。
この遷都には、政治的・軍事的な理由がありました。
長安は董卓の勢力基盤である涼州に近く、関中を支配するうえでも有利な位置にあります。
ただし、その過程で洛陽は大きな被害を受けました。
董卓は洛陽を焼き払い、宮殿や民家を破壊して長安へ移動します。
さらに洛陽周辺の陵墓を発掘し、財物を持ち去らせたとも記録されています。
こうしてかつて後漢王朝の中心だった洛陽は、大きく荒廃することになりました。
孫堅との戦いと董卓の敗退
董卓軍と反董卓勢力の中で激しく戦ったのが孫堅でした。
孫堅は陽人で董卓軍を破り、その後も洛陽方面へ進出します。
董卓側の胡軫らが孫堅軍に敗れるなど、董卓は軍事的にも次第に追い込まれていきました。
最終的に董卓は洛陽を維持することができなくなり、長安へ退却します。
ただし、ここで重要なのは、
「反董卓連合が洛陽を奪い、董卓を長安から完全に追い払った」
という単純な構図ではないことです。
反董卓勢力は董卓を完全に滅ぼすことができず、
諸侯同士の利害対立もあって、次第にまとまりを失っていきました。
董卓は長安で依然として強大な権力を維持することになります。
長安でさらに深まる暴政
長安へ移った董卓は、さらに権力を強めました。
そして自らを「太師」と称するまでになります。
一方、董卓に対する反感は日に日に強まっていきました。
その中心となった人物が司徒の王允です。
王允は董卓を排除するため、董卓の側近である呂布を利用する計画を進めますが、ここで董卓と呂布の関係が重要になります。
董卓は丁原の部将だった呂布を自陣営へ引き入れました。
呂布は董卓の養子となり、董卓から厚い信任を受けます。
しかし、二人の関係は次第に悪化していきます。
正史『三国志』によれば、呂布はある時、董卓の怒りを買い、董卓から戟を投げつけられるほど危険な目に遭っています。
その後、王允が董卓暗殺の計画を持ちかけると、呂布はこれに加わりました。
なお、ここは『三国志演義』との大きな違いがあります。
演義では「貂蝉」をめぐる三角関係が董卓と呂布の対立原因として非常に有名ですが、
貂蝉という美女を使った連環の計は演義による創作です。
正史では、呂布が董卓の侍女と私通していたことを恐れていたという記述はあります。
しかし、それを「貂蝉」という人物や有名な恋愛劇として描くことはできません。
董卓、最期の時
192年、王允らはついに行動に移ります。
董卓が献帝に謁見するため宮中へ向かったところ、呂布らが待ち伏せしていました。
そして呂布は董卓を刺殺します。
こうして、後漢王朝の実権を握っていた董卓は、あっけなくその生涯を終えました。
その死を見届けた人々の反応は、
董卓の支配がいかに恐怖に満ちたものであったかを物語っています。
董卓の死体は市中にさらされ、その身体に灯芯を置いて火をつけたところ、
脂肪が多かったため長時間燃え続けたという逸話も残されています。
また、董卓の一族も処刑されました。
董卓の母親も殺害されており、董卓の一族に対する報復は徹底したものでした。
さらに正史『後漢書』には、董卓の死を知った人々が喜び、肉や酒の値段が上昇するほどだったという趣旨の記録もあります。
それほどまでに、董卓に対する民衆の憎悪は深かったのでしょう。
若き日の董卓と、暴君となった董卓
董卓という人物を正史から眺めると、非常に興味深い変化が見えてきます。
若き日の董卓は、武勇に優れ、弓馬に秀で、羌族の豪族たちとも親しく交流しました。
戦場では危機に際して機転を利かせ、部下に褒賞を分け与えることで人心をつかみました。
そのため、若き日の董卓は決して「無能な悪人」ではありません。
むしろ、辺境の軍事環境の中で鍛えられた、非常に有能な武人だったと考えられます。
しかし、後漢王朝の政治が崩壊し、軍事力を背景に権力を握るようになると、その性格は大きく変化していきました。
皇帝を廃立し、朝廷を自由に動かし、反対者を排除するものの、
て最後には、自らが作り上げた軍事的権力によって支配しながら、その権力の中心にいた呂布によって命を奪われました。
董卓の人生は、
「涼州の武人」から「漢王朝最大の権力者」へ。
そして、「人に慕われる豪傑」から「天下に憎まれる暴君」へという、大きな転落の物語でもあります。
陳寿は『三国志』董卓伝の末尾で、董卓ら後漢末の群雄について厳しい評価を下しています。
特に董卓については、その残虐さと暴虐ぶりが極端なものであったと評しています。
ただし、董卓の最期だけを見てしまうと、
彼がどのようにしてそこまでの権力を手に入れたのかが見えなくなります。
実際の董卓は、最初から単純な暴君だったわけではありません。
涼州という辺境で異民族と交わり、弓馬を身につけ、戦場で功績を重ね、兵士たちの信頼を獲得した一人の武人でした。
その男が後漢末という巨大な政治的混乱の波に乗り、ついには皇帝の廃立さえ左右する存在へと登り詰めたのです。
そして、その権力を制御することができなくなったとき、董卓自身が生み出した軍事権力によって、最後の幕が下ろされました。
それこそが、正史から見た董卓の生涯だったといえるでしょう。

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