馬岱と言えば、関羽・張飛・趙雲・黄忠・馬超などがいた時代は、
ほとんど空気に近いような立ち位置でしたが、
次々と主だった人物が亡くなっていくにつれ、
蜀にとって欠かせない人物に成長していくようなイメージがあるかと思います。
むしろ相当な頻度で南蛮討伐や北伐で登場しています。
ですがこれはあくまで三国志演義での活躍として描かれていることであり、
正史にはあまり記載が残っていない人物の一人です。
目次
馬岱(ばたい)
横山光輝三国志(31巻40P)より画像引用
馬岱は馬超の従弟にあたる人物ですが、
産まれた背景など詳しい記録は何もわかっていません。
三国志演義では、馬騰が曹操におびき寄せられて討たれた際に、
馬岱一人逃げきった話があったり、
馬超・韓遂連合軍に夜潼関の戦いの際にも馬岱は参加してた話があります。
ですが・・・・、
これはあくまで三国志演義の話であり、
正史にそういった記載は全く残されていないのが現状です。
そして馬騰が殺されたのは馬超が反乱を起こしたことが原因ですし、
そもそも馬騰・馬休・馬鉄など馬一族が曹操に処刑されたのは潼関の戦いより後の話ですしね・・・・
まぁ馬岱は潼関の戦いには参加してたと思うんですが、
記録がないので何とも言えません。
ちなみに馬岱の名前が正史にきちんとした形で登場するのは、
222年に馬超の遺言の中で馬岱が登場しています。
「二百人以上いた馬一族も、ほとんどが曹操に殺されてしまい、
現在従弟の馬岱だけが残っています。
どうか私の後事を馬岱に継がしたいと思っていますので、
劉備様に後のことはお任せします」といったような遺言でした。
これはまぁ有名な話でもあるので、
知ってる方も多いんじゃないでしょうかね?
とりあえず馬岱の名前が正史に出てくるのは、それぐらい後の話なんです。
そして馬超が死んだ翌年に劉備もなくなり、
劉禅が跡を継いだ際は、馬超の言葉が多少取り入れられたのか、
平北将軍に昇進し、陳倉侯に任じられています。
北伐での馬岱の活躍
馬岱が第一次北伐に参加していたことは間違いなく、
その理由は諸葛亮の「出師の表」を劉禅に上奏し、
出陣する将軍を諸葛亮が決定していた点からも分かる事です。
趙雲・・鄧芝・楊儀・張翼・馬岱・馬謖・王平・楊儀みたいな感じですね。
ただどういう活躍をしたのかなど、
そういった内容ははっきり言って分かりません。
そしてその後の北伐でも毎回参加していたとは思うんですけど、
記録がないのでどういう役割を任され、どういう手柄をあげたかなど分からない点ばかりです。
第五次北伐(諸葛亮の死)
そんな北伐に関してもあやふやな馬岱でしたが、
きちんと参加していた記載が残っていた北伐があります。
それは五丈原で諸葛亮が亡くなった第五次北伐です。
諸葛亮死後、常日頃から仲が悪かった魏延と楊儀が対立してしまいます。
そして魏延は楊儀が反乱を起こしたと、
逆に楊儀は魏延が反乱を起こしたという始末・・・
結局魏延が悪者扱いされ、
魏延は反乱を企てた者として討ち取られています。
この時に魏延を討ち取ったのが、馬岱でした。
馬超の死の直前にやっと名前が出てきたかと思うと、
北伐での功績もあやふやで・・・
その後名前が出てくるのが諸葛亮死後なんて・・・
他にも探すと、第五次北伐で魏延が斬られた翌年に、
馬岱が魏へ攻め込んできたという記録もかろうじて残っています。
その時に馬岱は牛金と戦って敗れたと書いてあり、
馬岱軍の被害は千程度の被害だったというものでした。
ただ馬岱が牛金に敗れたというものに関して補足を入れておくと、
これは陳寿が著した「三国志」に記載されているものではなく、「晋書」に記載されている内容になります。
ちなみに「晋書」が書かれたのは、三国時代よりもだいぶ後の唐の時代であり、
648年に房玄齢・李延寿らによって編纂されたものになります。
この「晋書」は基本的に、
晋(西晋・東晋)についての記載がメインではありますが、
晋以外の三国時代のことや五胡十六国時代のことにも触れられています。
馬岱に関する記載が少ない理由
とりあえず馬岱に関する正史の記録は、
これまで述べたように本当に少ないのが現状ですね。
「正史に記載するようなことがあまりない程度の人物だった」可能性も否定できませんが、
理由をつきつめればそこではない気がします。
まず最大の理由は、
「馬岱伝」という個人伝が立てられていない点かと思います。
実際馬岱に関して記載がされているのは、
馬岱が登場する遺言の話も馬超伝に記載されていることだし、
魏延を斬った話も魏延伝に書かれてあるから分かることなんです。
だから「馬岱伝」という馬岱を中心に記載されたものが残っていない事が、
馬岱に関する記録が少ない原因であるのは間違いない事でしょう。
もう一つは、蜀(蜀漢)では、記録がきちんと整理されていなかったことかなと思います。
魏(晋)や呉ではこれがきちんとされていました。
だからこそその記録を元に陳寿が「三国志」を著した際にも、
多くの参考になる資料があったわけです。
しかし蜀ではそういった資料が少なすぎました。
だからこれは馬岱だけではなく、
蜀に仕えた多くの人物にも並行して言える事ですが、
魏や呉に比べてそのあたりが疎かであったと言わざるを得ないかもしれませんね。
三国志演義での馬岱の描写
三国志の正史には記載が少ない馬岱ですが、
三国志演義ではこれでもかってぐらいに多く登場しています。
特に諸葛亮による南蛮攻略・北伐が行われた時には、
ベテランの中間管理職みたいな立ち位置で、
に仕事をこなすような立ち位置で多く登場してる感じがします。
そんな馬岱がはじめて三国志演義に登場するのは、
馬超の父である馬騰が曹操におびき寄せられた形で殺害されたタイミングでした。
この時に馬騰をはじめ、
馬超の弟である馬休・馬鉄が殺されてしまいます。
その中で馬岱のみ、なんとか曹操軍から逃げ延び、
馬騰・馬休・馬鉄の死を涼州に残っていた長男の馬超に知らせるというものでした。
馬騰・馬休・馬鉄の復讐戦として、
馬超が韓遂と手を組んで曹操領へ攻め込んで潼関で雌雄を決します。
これ以後、馬超の傍らで常に登場する人物に・・・
張飛VS馬超の一騎打ちの前菜
横山光輝三国志(35巻126P・127P)より画像引用
三国志演義での見せ場とも言える馬超と張飛の一騎打ち。
馬岱はその一騎打ちの前菜みたいな役割で、
「馬超を早く出せ!」という張飛に対して、
「お前ごとき私で十分だ!」って張飛に一騎打ちを挑むも全く歯が立たないという始末。
これにより馬超と張飛の一騎打ちが繰り広げられるわけですが、
結局二人の勝負はつきませんでした。
そして馬超を仲間にしたいと考えた劉備は、
李恢の説得により、馬超を仲間に引き込むことに成功。
馬超の降伏に伴い、馬岱も自然な流れで劉備に仕える事になるわけです。
その後馬超が亡くなり後事を託されるのは正史の記述と同じですが、
これ以降馬岱の出番は急速に増えていく事になります。
馬岱の活躍(南蛮討伐&北伐)
孟獲率いる南蛮が反乱を起こした際は、
趙雲・魏延に負けず劣らず大活躍をした一人です。
「七縦七擒」という言葉は有名ですが、
この時に孟獲を七度のうち二度捕らえたのが馬岱になっています。
それまで他者を引き立てる脇役だったのが、
この南蛮討伐から準主役的な立ち位置まで一気に成長した感じで描かれだしたわけです。
諸葛亮の北伐時には絶対に欠かせないメンバーの一人になります。
諸葛亮が魏延を司馬懿もろとも殺そうと企てて失敗した時には、
その罪を全て馬岱に被せ、今までの地位を全て奪うなんてことがありました。
なにがなんだか意味が分からないまま罰せられた馬岱ですが、
諸葛亮の心境を聞いた馬岱は、
魏延が反乱を起こさないように見張り役として、魏延の部下になることを決意したのです。
横山光輝三国志(59巻26P)より画像引用
馬岱最大の見せ場
諸葛亮が第五次北伐中に五丈原で陣没すると、
魏延と楊儀の対立が激化します。
多くの者達が楊儀に肩入れしたことで、
結果として兵士の大半が逃げ去ってしまい、魏延は魏への投降を考えるのですが、
諸葛亮から「魏延を魏に走らせてくれるな!」と言われていた事もあり、
「漢中を取れば益州を制圧する事も可能ですよ」と魏に魏延を走らせないように懸命に説得します。
そして次第に馬岱の言葉に乗せられた魏延は、
楊儀と決着をつけるべく漢中へと進行したわけです。
横山光輝三国志(59巻191P)より画像引用
南鄭城で楊儀・姜維と漢中で対峙した魏延ですが、
楊儀が「私を殺せる者がおるか!?」
と三度叫ぶことができたら漢中を無条件に魏延に譲ると宣言。
そこで魏延は「私を殺せる者があるか!」と叫んだ瞬間、
魏延の後ろにいた馬岱が「ここにおるぞ!!」と言って魏延を斬り捨てました。
横山光輝三国志(59巻208P・209P・210P)より画像引用
これは諸葛亮が生前に、楊儀と馬岱に託していた作戦で、
魏延が反乱を起こした際の対策だったのです。
そして魏延を討ち取った馬岱は、
劉禅から魏延の爵位を全て貰い受け、馬岱の忠義心へ報いたのでした。
これが三国志演義での最後にして最大の見せ場になり、
馬岱の物語は終わりを迎えます。