「渠帥」に任じられた波才

張角は膨れ上がった黄巾の信者を、

36の「方」に分け、その一つ一つに指揮者(代表者)を任命し、

黄巾賊を組織化する事に成功しています。

 

個人的にはこれを組織化したのは馬元義だと思っていますが、

それを証明する記録が今に伝わっていませんので、ここはなんの根拠もない完全な推測ではあります。

 

乱世の幕開けとなった184年2月、黄巾賊が各地で一斉に蜂起しました。

 

黄巾賊に加担する者達は様々な身分の者達が在籍していましたが、

皆漢王朝の腐敗政治に対して怒りと不満を爆発させたのです。

 

この時に波才は、36の「方」の一人に任じらることになります。

 

ちなみに36人の指揮官の事を「渠帥きょせい」と呼びますが、

選ばれた者達は渠帥としての重責を背負って戦いに身を染めていく事になります。

 

その中でも潁川えいせん地域は最大の激戦区と呼ばれた戦場になりますが、

そこで波才は漢軍と攻防戦を繰り広げていきます。

馬元義 ~黄巾の乱を組織化させた腹心!?~

黄巾の乱の主な戦場&経過情報

①冀州・幽州方面

ほとんどが冀州になりますが、幽州も加えています。

張角・張宝・張梁らが暴れまわった地域として有名です。

 

張角が病死し、張宝・張梁が打たれた事で終焉を迎えます。

②荊州・揚州方面

ほとんどが荊州になりますが、揚州も加えています。

ここは張曼成・趙弘らが暴れまわった地域になります。

 

しかし豫洲方面の波才が敗れると、勢いに乗った朱儁らの軍勢によって平定されています。

③豫洲・兗州方面

豫洲方面は波才が暴れまわった地域であり、

豫洲の中でも潁川郡は一番の激戦区だったと言われています。

 

一番の激戦区だと言われた理由は、波才を倒すべく、

朱儁・皇甫嵩・曹操・孫堅などそうそうたる面子が集結して戦ったからです。

ただ孫堅に関しては朱儁軍に従う形で戦いに参加していたので、朱儁軍という形となります。

 

ちなみに兗州方面では、卜巳ぼくしが暴れたりしていました。

その後の波才

波才は潁川郡で暴れまわり、朱儁軍を打ち破ったりと黄巾賊の意地を見せつけます。

 

朱儁軍は波才軍にやられて敗走するわけですが、

これに乗じて波才は皇甫嵩がいる長社の城に迫り、完全に城を包囲してしまいます。

 

波才軍は大軍であり、皇甫嵩軍は少数であったために、

波才軍が迫った時には籠城を決意したようです。

 

ただこの時に皇甫嵩は闇に乗じて火計をしかけ、これに混乱した波才は敗走します。

 

 

そして朱儁が軍勢を立て直して皇甫嵩軍に合流し、

曹操が新たに援軍を引き連れてきたことで波才は大敗北を喫する事となります。

 

この時に討ち取られた波才軍の兵士は数万に達したと言われています。

 

 

勢いに乗じた皇甫嵩・朱儁軍は、潁川郡の陽翟に逃れた波才を追撃して叩き伏せています。

波才が敗れた事で、他の戦線も次々と攻略され、張角が起こした黄巾の乱はとりあえず終焉に向かったのです。

 

ただ黄巾賊の残党による反乱は各地で続いていきますが、一旦の終焉を迎えという形です。

波才は名家出身だった!?

黄巾の乱に参加した者の素性はほとんど分かっていない者が大半です。

 

黄巾の乱の首謀者である張角であったり、弟の張宝や張梁であったり、

そして張角の腹心であった馬元義にいたってもそうです。

 

おそらく黄巾の乱が鎮圧された事で、ただの賊軍という枠に収められてしまった為に、

それまでの素性をあえて残さずに、賊徒としての記録だけが残された結果ではないかと思います。

 

 

そしてそんな中でも波才に関しては、

以下の情報からある波才の疑惑・素性が浮かび上がる事となります。

 

1084年に司馬光によって編纂された「資治通鑑」という書物には、

紀元前403年(戦国時代の始まりとされている年)から、

959年(北宋建国の前年)までの1362年間にわたる膨大な記録をまとめたものになります。

資治通鑑とは?

資治通鑑は英宗の詔により編纂されたものであり、

1065年から取り掛り、1084年に完成した歴史書(全294巻)である。

 

ただ英宗の時代には完成を見ず、次の皇帝となった神宋(英宗の子)の時代に「資治通鑑」として完成している。

北宋の皇帝一覧(太祖〜欽宗)

1代目:太祖(趙匡胤)-北宋の創始者-

2代目:太宗(趙炅)-太祖の弟-

3代目:真宗(趙恒)-太宗の子-

4代目:仁宗(趙禎)- 真宗の子-

5代目:英宗(趙曙)-仁宗の従兄である趙允譲の子- →資治通鑑の編纂開始

6代目:神宗(趙頊)-英宗の子- →資治通鑑の完成

7代目:哲宗(趙煦)-神宗の子-

8代目:徽宗(趙佶)-神宗の子-

9代目:欽宗(趙桓)-徽宗の子-  →金(女真族)により北宋は滅亡した。

※これ以降は南宋として元(モンゴル帝国)に滅ぼされるまで生きながらえる事となる。

 

著者:司馬光(司馬防の末裔とされる人物)

※司馬防は司馬八達と呼ばれた八人の息子の父親であり、

司馬光は司馬孚(三男)の末裔とされている。

司馬八達(字に全て「達」がついており、八人全てが聡明であった事が由来である。)

①司馬朗(伯達)  ②司馬懿(仲達)  ③司馬孚(叔達)

④司馬馗(季達)  ⑤司馬恂(顕達)  ⑥司馬進(恵達)

⑦司馬通(雅達)  ⑧司馬敏(幼達)

 

編年体(歴史的出来事を年代順に記載する方法)

※正史三国志(陳寿)は紀伝体(個別に記録をまとめる方法)であり、三国志を含む中国の正史(二十四史)は紀伝体で書かれている。

二十四史(史記・漢書・後漢書・三国志・晋書・宋書・南斉書・梁書・陳書・魏書・北斉書・周書・隋書・南史・北史・旧唐書・新唐書・旧五代史・新五代史・宋史・遼史・金史・元史・明史)

 

この資治通鑑の中にに次のような一文が記載されています。

波姓也其先事王莽為波水将軍子孫以為氏

波氏は王莽の波水将軍の子孫である。

 

王莽の波水将軍とは竇融とくゆうという人物の事であり、

後漢を興した光武帝(劉秀)の功臣であり、外戚でもある人物です。

 

つまり何が言いたいかといいますと、皇族(劉氏)と繋がりがあるという事です。

 

 

そしてこの竇融は「王莽の」と記載があるように、

前漢を滅ぼして「新」を建国した王莽に仕えていたという事実です。

 

ただこれは暗黙的なことなので、記録としては当時残さなかったのだと思います。

あまりに都合が悪いことなので歴史を改ざんしたという可能性が浮かび上がってくるわけです。

波才が張角に加担した理由を探る

竇融の一族は、竇家と波家に分かれていったようですが、

ただ外戚ということもあって、子孫も重要な地位についてきた名家でした。

 

分かりやすい所で言いますと、建寧元年(168年)に霊帝(劉宏)が即位します。

その際に竇武は大将軍に任じられています。

 

しかし宦官との権力争いに敗れた竇武は、その後まもなくして自殺に追い込まれています。

 

 

漢王朝が宦官の専横によって腐りきっているこの状況に対して、

竇武の一族の一人であった波才が怒り、張角に力を貸した可能性は十分にありそうな流れかと思います。

 

しかし波才の素性について記録が全くに残されていないのは、

黄巾賊という賊徒に加担したという都合が悪い事実を歴史の表舞台から抹消したかったのではないでしょうかね。

 

これだけ組織化された黄巾の乱が、単純な宗教反乱・農民反乱と言うには無理が大きいと私は思います。

もしも黄巾の乱によって漢王朝が滅びる事があったのなら、もっと多くの情報が今に伝わっていた事でしょう。

 

勝てば官軍、負ければ賊軍、

歴史は常に勝者が作ってきた歴史である事からも証明されていますから、

黄巾の乱もまた例外ではないわけです。