三国志演義で登場する孟獲には、

兄である孟節と弟にあたる孟優がいました。

 

もちろんですが孟節・孟優の二人は、

三国志演義で登場する架空の人物になります。

 

孟節は孟獲と真逆の道を歩み、孟優は孟獲とともにする人生を歩んだのですが、

今回は三国志演義に登場する孟獲の兄である孟節についてのお話です。

「七縦七擒」の名前の由来となった孟獲

孟獲の兄、孟節(もうせつ)

孟節は南蛮王であった孟獲の実の兄でありながら、

孟獲とは真逆の道を歩みます。

 

弟にあたる孟獲と孟優は権利欲・物欲が非常に高かったこともあり、

そんな二人の姿を見ていた孟節は嫌気が指してしまったのです。

 

 

そこで孟節は孟獲・孟優らとたもとを分かち、

下野して山奥でひっそりと過ごすことを決意したわけです。

 

孟節は万安渓ばんあんけいという谷に住み着き、

地元の者達からは「万安隠者」と呼ばれていました。

 

 

このあたりには毒を含んだ様々な泉が存在しており、

多くの人が毒に侵されることが多かく、

 

孟節は万安渓で、毒に侵された人々を救いながら、気ままな生活を送っていたようです。

孟獲・孟優に味方した朶思大王

孟獲・孟優が蜀に背いて反乱を起こすと、

蜀軍の勢いに押された孟獲・孟優らは次第に追い込まれていくことに・・・

 

そして四度諸葛亮に敗れていた孟獲は、弟である孟優の勧めもあって、

禿竜洞の朶思大王だしだいおうに救いを求めたのでした。

 

 

朶思大王は南蛮きっての知恵者と言われており、

 

諸葛亮の知恵に勝つには、

「朶思大王の知恵に頼るしかない!」と考えたわけです。

 

 

孟獲から救いを求められた朶思大王は、勇んで孟獲に手を貸すわけですが、

朶思大王には蜀軍を倒す秘策がありました。

 

そうとは知らない諸葛亮は、

孟獲・孟優らを追って南蛮深くまで侵入してくることに・・・

四つの毒泉

 

朶思大王の秘策とは、

この地域に存在していた四つの毒泉の存在でした。

  • 唖泉
  • 滅泉
  • 黒泉
  • 柔泉

 

 

水というのは人間が生きる上で必須なものであり、

 

南蛮という蒸し暑い環境の中ならば、

尚更に水が必要不可欠だったのは言うまでもないでしょう。

 

 

ましてや毒泉の存在など知らない蜀軍にとっては、

格好の餌食になるのが見えていたわけです。

四つの毒泉の見た目と特徴

 

この四つの毒泉にはそれぞれ違った見た目と特徴があります。

 

まず一つ目の「唖泉」ですが、泉の水を口にしたものは、

一夜のうちに口がただれて腸がひきちぎれるというものでした。

 

そして数日待たずして必ず死ぬというおまけつきだったわけです。

 

 

次に「滅泉」ですが、ほどよい風呂加減の温度らしく、

 

それに騙されて泉に入ろうものなら、

肉が溶けて骨だけになってしまうという恐ろしい泉になります。

 

 

三つ目の「黒泉」ですが、

名前からは想像できないほど綺麗で澄んだ泉であり、

 

もし誤って手足をつけてしまえば、

つけた場所が黒ずんでいって激痛をもたらすというものでした。

 

 

三国志演義の設定では手足となっていますけど、

 

手足がつけるだけで黒ずむということは、

体のどこをつけても黒ずんで激痛をもたらすと考えたほうが自然ですけどね。

 

 

そして最後の泉である「柔泉」ですが、

 

氷のように冷たい泉であり、

渇きに耐えかねた者がよく口にしてしまう泉でもありました。

 

しかしその水を口にすると、喉を侵された挙句に、

骨がばらばらになってしまって助かったものは一人もいないという恐ろしい泉だったのです。

 

 

朶思大王はこの四つの毒泉をもってすれば、

戦わずして勝利を収めることも可能だと考えていたわけですね。

蜀の味方をした孟節

毒泉があるとは知らない諸葛亮は、

孟獲を追って南蛮奥深くへと侵入していくこととなります。

 

しかし朶思大王の思惑通り、毒泉の罠に多くの兵士がかかってしまいました。

 

 

そんな折に地元の民から万安渓の「万安隠者」という人物が、

毒に侵された者達を治していることを聞かされました。

 

その話を聞いた諸葛亮は急いで万安隠者の元を訪ねます。

 

諸葛亮に会った孟節は、多くの病人を見て治療をしてあげたわけです。

これにより蜀の兵士らは回復していきました。

 

 

そして「薤葉芸香」という薬草を諸葛亮に与えたのですが、

この薬草を食べると毒にあたることはないというものだったわけです。

 

諸葛亮は万安隠者に大変感謝を言いつつ、万安渓を去っていったのでした。

孟節と諸葛亮の会話

横山光輝三国志(48巻70P)より画像引用

 

諸葛亮は万安隠者の元を立ち去る際に、

この時に諸葛亮は「あなたは何者なのか?」を尋ねました。

 

そうすると万安隠者は「私は孟獲・孟優の兄で孟節です。

権力欲・物欲が激しい孟獲・孟優に愛想をつかし、万安渓にこもったのです」と返します。

 

 

これを聞いた諸葛亮は驚いて、

孟節に孟獲に代わって南蛮を治めてほしいと嘆願しますが、

 

今の生活があっているので、

「孟獲に代わって南蛮を治める気はない」と断ったのでした。

 

 

その言葉を聞いた諸葛亮は、

「人ある所に人なし、人なし所に人あり」と言ったそうです。

その後の孟節

それ以後孟節が三国志演義に登場することはありませんが、

反乱を起こした孟獲・孟優に味方するのではなく、

 

好き勝手にやらかす二人をどうにかしてほしいという気持ちも込めて、

孟節は諸葛亮に味方したのだと思いますね。

 

ただそれだけでなく、純粋に漢人・南蛮人に関わらず、

全てを同じ人間だと平等に見れる人物が孟節だったのでしょう。

 

 

孟節のお陰で軍を立て直した諸葛亮は、

孟獲・朶思大王との戦いに挑み、朶思大王を見事に討ち取っています。

 

そして諸葛亮の罠にかかる形で、孟獲は六度目の捕虜となったのでした。