曹操のもとで力を発揮した国淵(子尼)
国淵は「魏志」国淵伝の個人伝が立てられている人物であり、
青州楽安国蓋県の出身になります。
訓詁学を大成したことでしられる鄭玄の下で学び、
鄭玄から才能を認められた人物になります。
鄭玄は国淵のことを非常に高く評価し、
「国の大器と呼べるほどの才能を持っている」
と言わしめたほどの才能の持ち主でもありました。
そんな国淵でしたが中央が乱れていくと、
邴原・管寧らと共に遼東半島へと逃れています。
その際に国淵は山中の岩の上で勉学に励んでいたといいます。
曹操が袁家を滅ぼすと、国淵の噂を聞いた曹操によって召し抱えられることとなります。
そして曹操に仕えた国淵でしたが、
「屯田の範囲を広げたい」と考えていた曹操によってその事務を任されます。
国淵は土地の良し悪しを見極めて民を住まわせる事が大事であると判断し、
人口を計算して必要な数の官吏を置いた事で、
成績を評価するための規則をはっきりとさせています。
こうした国淵の対策により、民は競って努力しただけでなく、
楽しんで仕事をやってくれたといいます。
そして五年の月日が経った頃には、倉庫の食糧備蓄量が大幅にアップしたのでした。
またその中で自らは質素倹約に努めることを忘れる事はなく・・・
田銀・蘇伯の反乱により明らかになった「十倍増し報告」
曹操が漢中の張魯討伐に向かうと、
「居府長史」として留守の事務を任されることとなります。
そしてこのタイミングで田銀・蘇伯が河間で反乱を起こしたのですが、
国淵は慌てるそぶりもなく冷静に対応し、田銀・蘇伯の反乱鎮圧に成功しています。
この時に国淵は討ち取った賊兵の数を嘘偽りなく報告したのでした。
しかし後にこの報告を聞いた曹操はこの国淵に対して疑問を抱いたのでした。
そもそも何が疑問なのか分からないと思いますが、
敵兵や賊兵を実数より、
十倍の数を報告・記載することが慣習化されていたわけです。
だからこそ十倍増しで報告をしていない国淵に対して、曹操は不思議に思ったわけですね。
ただそれが当たり前の状態だったとすると、
数々と残されている正史の記録なども割り増しされた記録も多いのが現実の所だと思います。
一万人の敵兵を討ち取ったみたいなのも、実際は千人程度だということですから、
「あの戦いももしかして・・・」というかそういうことになるわけですね。
この割増文化の慣習化があった事が国淵の記録から分かるわけですから、
後世の者達からすると貴重な情報だと思います。
国淵が十倍増しで報告しなかった理由
自分の功績を少しでも大きくしたいのが当たり前だと思いますし、
それが習慣化されている状況下にあっては、別に悪い事ではなかったにもかかわらずに、
国淵が十倍増しで報告しなかった理由はなんだったのかといいますと、
これに対する国淵の意見は次のようなものでした。
「国外の戦いならば十倍増しで報告する理由は理解できます。
自分自身の功績もですが、民衆に良いイメージを持たせることも大事だからです。
ただ今回の場合は違います。
今回の田銀・蘇伯の反乱は国外での戦いではありません。
単純に国内で起きた反乱であり、
反乱を起こされるという事はそもそも恥ずべき問題であります。
もし十倍増しの報告をしたとしたら、
民衆が不安に思うのではないでしょうか!?
まぁそういった理由から、私は誇張した報告をしなかったのです。」
これを聞いた曹操は国淵を改めて高く評価し、
魏郡太守に国淵を任じられたのでした。
またこの時の余談として、国淵は曹操に対して、
「反乱の首謀者であった田銀・蘇伯以外の投降者は許して頂きたい。」
と嘆願し、曹操は国淵の言葉を聞き入れています。
これにより千名以上の命が救われたといいます。
名探偵-国淵-
曹操は希望や苦情を投稿できる「投書」という制度を行っており、
ここで曹操の政治体制を激しく非難した文書が投げ込まれていました。
曹操はこの名前も分からない人物に対して怒りを感じ、
その犯人捜しをしたのが国淵だったのでした。
国淵はその投書の文章に書かれている内容からヒントを得るしか選択肢はなく、
その文章を分析することとしました。
そうするとある事に国淵は気づくわけですが、その犯人の文章の中には、
「二京の賦(西京賦・東京賦)」(著:張衡)からの引用文が多く見られたわけです。
国淵はこれを大きなヒントと考えました。
まず国淵は功曹に命じて、理解力の高い三人を選ばせてたのでした。
そして三人に密かに事情を明かしたうえで、
「二京賦」が読める者を探し、その者のもとで学ぶように指示を出したのでした。
それから十日が経ったある日に、「二京賦」が読める者がみつかったので、
三人をその者の下へと学びに行かせ、その者に文章を書いてもらったと言います。
そして国淵がその文章と「投書」の文章を比較したところ、
全く同じ筆跡だった事で犯人の捕縛する事に成功したのでした。
国淵の働きによってこの事件は見事に解決したわけですが、
これらの手柄も重なり、国淵は太僕(九卿)にまで出世を果たしています。
ただ国淵は最後の最後まで質素倹約な生活を貫き、
手柄として受け取ったものは、部下や民衆に分け与え続けたといいます。
そんな国淵を「三国志」著者である陳寿は、
「袁渙・邴原・張範らは清廉であり、
進退が道義に沿うものであった。
思うに貢禹、両龔に匹敵する人物であったといえよう。
また涼茂や国淵は彼らに次ぐ人物であった」と評価しています。