劉先(りゅうせん、字:始宗)
劉先は、荊州零陵郡の出身で、学識と記憶力に優れた名士として知られていました。
とりわけ老子・荘子の思想、いわゆる黄老思想を深く学び、さらに漢王朝の制度や礼法にも精通していたと伝えられています。
荊州牧である劉表に仕えると、その才能を高く評価され、州政の補佐職である別駕に任命されました。
なお、神童として名高い周不疑は劉先の甥にあたり、
その才能を惜しんだ劉先は、同郷の名士である劉巴に弟子入りさせようとしました。
しかし劉巴は、「鳳凰を燕雀の群れに置くべきではない」と評し、その申し出を辞退しています。
これは周不疑の非凡な才能を称えた逸話として知られ、「蜀志」劉巴伝(裴松之注「零陵先賢伝」)に残されています。
劉表を諫め、曹操との和睦を勧める
官渡の戦いで袁紹と曹操が天下の覇権を争った際、
劉表は袁紹から援軍を求められました。承諾はしたものの実際には出兵せず、
かといって曹操にも味方せず、情勢を静観する姿勢を取りました。
これに対し劉先は、韓嵩とともに劉表へ次のように進言しています。
| 「天下の趨勢は将軍の決断にかかっています。
覇業を志すのであれば両者の疲弊を待って動くべきですが、 そうでないならば、いずれかに従うべきです。
曹操は用兵に長け、多くの賢才を従えております。 やがて袁紹を破ることでしょう。
その後に荊州へ向かって来れば、防ぎきることはできません。」 |
劉表はこの進言を受けて迷った末、韓嵩を使者として曹操のもとへ派遣しました。
その後、劉先自身も劉表の書状を携えて許へ赴き、曹操と面会します。
宴席で曹操は劉先に対し、
「劉表殿は、なぜ天と地を祭る儀式を行ったのか」
と問いかけました。
これに対し劉先は、
「劉表様は漢室の宗族として州を預かっております。
しかし世は乱れ、賊徒が道を塞いでいるため、朝廷へ貢物を献じることも、上表することもできませんでした。
そのため、天地を祭り、自らの忠誠を明らかにしたのでございます」
と落ち着いて答えました。
曹操がさらに、「その賊徒とは誰のことだ」と問い返すと、
劉先は一歩も引かず、「今、私の目の前にいる者たちがそうでございます」と答えたといいます。
曹操はなおも、
「私には十万の精兵がおり、天子の命を奉じて罪人を討てば従わぬ者はいない」
と自らの勢威を示しました。
しかし劉先は、
「天下の人々が苦しんでいる今、本来ならば徳をもって国を安んじる忠臣が現れるべきです。
ところが軍事力を頼みに残忍な振る舞いをし、自ら天下第一と誇るのは、まるで古代の暴君である蚩尤や智伯が再び現れたかのようです」
と堂々と言い切りました。
曹操はこの言葉に反論することができず、劉先の胆力と才知を高く評価したと伝えられています。
ちなみに劉先がこの二人を引き合いに出した理由としては、
曹操は「天子を奉じて天下を平定する」と語り、自らの軍事力を誇示したからです。
これに対し劉先は、「本来であれば徳によって天下を治めるべきであり、
武力を頼みに他者を威圧し、自らを誇る姿は、武力による覇権を追い求めた蚩尤や智伯と変わりません」と諫めたわけです。
蚩尤(しゆう)
蚩尤は中国神話に登場する伝説上の人物で、九黎の君主とされています。
優れた武勇を誇り、多くの兵を率いて勢力を拡大しましたが、やがて黄帝と天下の覇権を争いました。
『史記』をはじめとする古典では、蚩尤は勇猛で戦に秀でた一方、
武力をもって天下を制しようとした存在として描かれています。最終的には涿鹿の戦いで黄帝に敗れ、
その死後も「武力や暴虐の象徴」として語り継がれるようになりました。
そのため後世では、「蚩尤」といえば、
武力を過信し、力によって天下を支配しようとする人物をたとえる言葉として用いられています。
智伯(ちはく)
智伯(本名:智瑶)は、春秋時代末期の晋国における有力諸侯・智氏の当主です。
政治力・軍事力ともに優れた人物でしたが、その才能を自負するあまり他氏族に対して高圧的な態度を取り、
韓氏・魏氏・趙氏の三家にたびたび領地の割譲を要求しました。
韓氏と魏氏は要求を受け入れましたが、趙氏だけはこれを拒否します。
智伯は韓氏・魏氏と連合して趙氏を攻め、晋陽を包囲しました。
しかし長期戦の末、韓氏と魏氏は智伯の専横を危険視し、趙氏へ寝返ります。
紀元前453年、三家の挟撃を受けた智伯は敗死し、智氏は滅亡しました。
さらに智伯の首は趙襄子によって酒器に加工されたと『史記』に記されています。
智伯は卓越した能力を持ちながらも、
驕慢さと強圧的な振る舞いによって自ら破滅を招いた人物として、中国史上の代表例となりました。
また、智伯に厚遇された刺客・予譲が、
生涯をかけて主君の仇討ちを果たそうとした逸話も正史『史記』刺客列伝に記されており、
「士は己を知る者のために死す」という故事の代表例として広く知られています。
曹操から武陵太守に任命される

曹操は敵対勢力の使者でありながら、
少しも物怖じせず堂々と意見を述べた劉先の器量を認め、武陵太守に任命しました。
その後も劉先は引き続き劉表に仕え、荊州政権を支えています。
やがて建安13年(208年)に劉表が病没すると、
後を継いだ劉琮は曹操へ降伏し、荊州は魏の支配下に入りました。
このとき劉先も曹操に仕え、漢王朝の尚書となり、その後は魏において尚書令にまで昇進しています。
これは行政を統括する最高位の文官の一つであり、劉先が新政権でも高く評価され続けたことを示しています。
その後の詳しい活動については、
史料にほとんど記録が残されておらず、没年も明らかではありません。
『三国志演義』との関係
『三国志演義』に劉先は大きく登場しません。
しかし、曹操を前にして堂々と皮肉を述べるというこの逸話は、
小説において張松が曹操を痛烈に批判する場面の着想の一つになったと考えられています。
そのため、劉先の逸話は演義では別の人物(張松)へと姿を変え、より劇的な形で描かれていると見ることができます。





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