劉雄鳴は「三国志演義」には登場することがない人物で、
正史にのみ名が残る人物になります。
少しマニアックな人物ですが、
馬超・韓遂らの関中十部に数えられる可能性のあった人物でもあり、
なかなか時代に流されるような人生を送っていますね。
劉雄鳴(りゅうゆうめい)
劉雄鳴は雍州京兆郡藍田出身で、
若かりし頃は覆車山に住んでいたようで、
薬草集めや狩猟を生業にしてました。
劉雄鳴が住んでいた覆車山では、
雲霧によって視界が悪くやることが頻繁にあったのですが、
劉雄鳴が道に迷うことはなかったといいます。
個人的には最初は、迷ったこともあると思うんですけどね。
それから次第に慣れてきたりして、
迷わなくなっていったという方が自然な感じがするわけで・・・
「ただ劉雄鳴が雲霧が発生しても、全く道に迷わないことから、
劉雄鳴が雲霧を発生させている」と噂されていたようです。
とりま劉雄鳴が雲霧を発生させたのは作り話でしょうけど、
まぁ仙人的な評価を受けた理由については、
藍田には仙人や聖人が集まるという伝説があったりしたわけでして、
その延長線上におそらく劉雄鳴がいたのでしょうね。
関中十部(馬超・韓遂等)候補から破門
192年に李傕・郭汜が董卓の仇として、王允・呂布らを駆逐すると、
多くの人々が劉雄鳴を頼って避難してきたようです。
おそらくこの頃の劉雄鳴は、
力を持っていた豪族の一人になっていたのでしょうね。
しかし211年に馬超・韓遂ら関中十部による反乱がおこると、
劉雄鳴は馬超・韓遂らに抵抗して敗れたとあるので、
おそらく豪族であった劉雄鳴も、
他豪族同様に馬超・韓遂らに誘われていたのでしょう。
ただ劉雄鳴が参加しなかったことで攻められてしまったという流れかなと・・・
なので本当は以下の関中十部のメンバーに、
本来は劉雄鳴も入っていた可能性もありますし、
逆に劉雄鳴が入っている事で、関中十部に数えられなかった人物がいたかもしれませんね。
- 馬超(ばちょう)
- 韓遂(かんすい)
- 楊秋(ようしゅう)
- 成宜(せいぎ)
- 李堪(りかん)
- 程銀(ていぎん)
- 侯選(こうせん)
- 張横(ちょうおう)
- 馬玩(ばがん)
- 梁興(りょうこう)
馬超・韓遂らに敗れた劉雄鳴は、
曹操の元へと落ち延びていくことになったのですが、
曹操は劉雄鳴を大いに歓迎!!
曹操は劉雄鳴に対して、
「私が潼関に入った時に、
一人の神人を得る夢を見たのだけれども、
あの夢の神人は貴方の事だったですね!」
とまでに言わしめ、劉雄鳴を将軍に任じています。
ただ将軍もピンキリなので将軍とだけしか記録がないなら、
雑号将軍という下位の将軍職でしょうけどね。
反乱を起こした劉雄鳴
将軍に任じられた劉雄鳴は、
配下を連れてくるように命じられたわけですが、
配下の元に戻った劉雄鳴を待ち受けていたのは、
予想だにしなかった配下からの激しい反発だったのでした。
配下の反発を止めることができなかった劉雄鳴は、曹操に敵対する道を選択し、
武関近辺を拠り所ににし、数千人を率いることに・・・
劉雄鳴の反乱に怒りを覚えた曹操は、
機動力を武器とした夏侯淵に討伐を任せたのでした。
ただこの時期には、関中十部の残党どもの討伐を任されたのも夏侯淵なので、
その流れの中で劉雄鳴の討伐も任されたのでしょうね。
そして夏侯淵に敗れた劉雄鳴ですが、漢中の張魯を頼って落ち延びていったのでした。
神人から老爺(老害)扱いへ
曹操が漢中攻略に乗り出すと、
戦いの末に張魯は曹操に敗れて降伏します。
この時に張魯は曹操に大きな待遇を持って迎えられたのですが、
その理由は張魯が曹操に敗れた際に、
「財宝をそもそも国家の物だから・・・」という理由で、
宝物を壊したり焼き払ったりせずに封印した態度を非常に気に入ってのことでした。
同じくこの時に馬超の片腕でもあった龐徳も
勇猛さを買われて曹操に迎え入れられたわけですが、
そんな中で真逆の対応をされたのが劉雄鳴だったのです。
曹操は劉雄鳴の顎髭を引っ張って、次のように言います。
「手間をかけさせやがって、この老賊め!
今度こそお前を我が手中に収める事ができたぞ!!」と・・・
そういいつつも曹操は劉雄鳴を許し、
再び同じ将軍職に戻して迎え入れたのでした。
ただ身近な者達を劉雄鳴の近くに置いておくと、
また良からぬ行動を起こす危険性もあると考えた曹操は、
遠方である青州の渤海に飛ばしちゃったわけです。
渤海に飛ばされてからの劉雄鳴の話が何も伝わっていない所から見るに、
目立った動きもなく静かに亡くなったのでしょうね。