孫権には何人もの側室がいましたが、

その中でも孫権から大変な寵愛を受けた女性がいました。

 

その女性は歩練師という人物ですが、最終的に皇后の位を追号された女性でもあります。

ただ正室ではなく、あくまで側室としての立ち位置だったのは余談です。

歩練師(歩夫人/ほれんし

歩練師孫権の側室で、歩夫人と呼ばれる事も多い女性です。

 

姓からも想像しやすいと思いますが、歩騭の一族の女性ですね。

また孫魯班・孫魯育の母親でもあります。

 

 

そんな歩練師でしたが、孫権から大層愛されたようです。

 

歩練師が孫権から寵愛を受けた理由として、

容貌だけでなく、その性格を愛したと伝わってます。

 

 

歩練師は嫉妬渦巻く宮中で、誰に対しても嫉妬をすることはなく、

逆に自身以外の女性を薦めたこともあったのです。

 

そういう性格もあってか、

歩練師は長らく孫権の寵愛を受け続ける事になったのでした。

「王后」「皇后」問題

これは孫権が呉王、そして呉皇帝になった時の逸話になります。

 

孫権が呉王の時には、

歩練師を「夫人」から「王后」にしたいと考えるようになり、

 

孫権が呉を建国して皇帝になった際には、歩練師を「皇后」にしたいと考えます。

 

 

この孫権の考えに反対したのが、孫権の長男であった孫登でした。

 

孫登は孫権の皇太子的な立場であるわけですが、

皇后になるべき人物だと思っていたのは、自身の養母である徐夫人でした。

 

この時に多くの臣下の者達も、孫登の考えに賛同していますね。

 

 

しかしそんな孫登の意見が、孫権に聞き入られる事はありませんでした。

 

ただ孫権自身も、この事に関しては多くの臣下の者達から反対されていた事もあり、

歩練師を皇后にすることもなかったのです。

 

 

また歩練師自身も、徐夫人を差し置いて、

皇后になることを望んでいなかったとも言われています。

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「皇后」と呼ばれるようになった歩練師

移り行き季節の中で、徐夫人も歩練師も、

正式に皇后に任じられることはありませんでしたが、

 

後に歩練師が成り行きの中で皇后と呼ばれるようになっていきます。

 

 

一方で徐夫人がいつ頃に亡くなったのか記載が伝わっていない事もあり、

もしかするとこれは、徐夫人が亡くなってからの逸話である可能性も否定できません。

 

何故ならば徐夫人が生きていた時であったならば、トラブルの元となるのは想像に難くないからですね。

 

 

それと同時に歩練師が過ごしていた宮殿は、「皇后の住まう場所」ということで、

「中宮」と呼ばれるようになっていきます。

 

ただそれを歩練師が望んでいたかというと、あやしい所はあるでしょうね。

歩練師の死&皇后追号

事実上の皇后であった歩練師ですが、238年に亡くなっています。

 

 

孫権は歩練師の死を非常に悲しむと同時に、

 

「せめて最後に皇后にしてあげたい!」

という気持ちが芽生えたのでした。

 

そして臣下の者達は孫権の意見を尊重し、歩練師に「皇后」を追号しています。

 

 

皇后の位を追号された歩練師ですが、蔣陵の地に葬られています。

 

そして孫権が崩御した際には、

歩練師(実際は歩皇后)の墓も孫権の墓に移されていますね。

 

つまり、合葬という形がとられたわけです。

 

 

この処置は、孫権の生前の寵愛ぶりから、

「死後も一緒に歩練師と眠れるように・・・」

との配慮がなされた可能性が高いと思われます。

 

 

ただもしかしたら今に伝わっていないだけで、

「歩練師と合葬にせよ!」という孫権の遺言があった可能性も否定できません。

孫権から歩練師への追悼の言葉

孫権が歩練師を大層に寵愛していたかが分かる追悼の言葉が残っています。

せっかくなので、最後に紹介しておきたいと思います。

貴女が亡くなってしまった今にして思うことは、

私の覇業を支えてくれていたのは間違いなく貴女でした。

 

だからこそここまで共に歩んでこれたのだと思います。

 

 

貴女ほどのできた心の持ち主はそうそうにいません。

 

そんな貴女だったからこそ、私だけでなく、

臣下の者達から民衆に至るまで心を寄せたのでしょう。

 

 

まだまだ天下は乱れております。

だからこそ私は貴女の謙遜する心を汲み取って、急いで皇后にすることはなかったのです。

 

ただそれはもっと長い時間を共に歩んでいけると信じていただからであり、

そんな中で突然に貴女は亡くなってしまわれた。

 

だからこそ私は皇后の位を与えれなかったことを後悔すると共に、

貴女の死を大変に悲しんでいるのですよ。」

 

天下三分の一端を担った孫権(仲謀)