滕牧(とう ぼく)
滕牧は青州北海国の出身で、
もともとは滕密という姓名だったといいます。
そもそも何故に名前を変更したかというと、
「丁密という人物と名前が同じだったから・・・」
というどうでもよい事が理由でした。
また名前を変えたのは滕牧だけでなく、
丁密も丁固に名前を変更したようです。
そんなおちゃめな所がある滕牧ですが、
一族の者であった滕胤が呂拠と手を結んだことでとばっちりを食らうことに・・・
滕胤と呂拠は全力で専横政治を行っていた孫綝殺害に乗り出すも、
見事に失敗してしまうという事件が起こります。
これによりとばっちりを受けた滕牧は、
処刑こそ免れるものの流刑の罪に・・・!!
孫休の即位×転機
連座というとんだとばっちりを受けて、流刑に処された滕牧したが、
それから間もなくして孫亮が孫綝排除に失敗して失脚し、
代わりに孫休が新たな皇帝となります。
これにより大赦が行われ、
滕牧の罪は許されることに・・・
またそれだけではなく、
五官中郎に任じられるといはうおまけ付きだったわけです。
そして滕牧にとって良いことは連鎖し、
滕牧の娘であった滕芳蘭は、
後の皇帝となる孫晧に嫁いだのでした。
まぁ孫晧が後に皇帝となったというのは結果論ですが、
滕芳蘭が皇帝の一族である孫晧に嫁いだというだけで、
滕牧が並々からぬ運の持ち主であったことは間違いないでしょう。
これにより滕牧は外戚として、
皇族と繋がりができたことだけは間違いないのですから・・・
滕芳蘭の皇后就任
孫休が早世すると、
孫休の遺言に逆らう形で孫晧が跡を継ぎます。
重臣であった濮陽興と張布が、
孫晧即位に働きかけたからですが・・・
まぁもっと遡ると万彧が、
「孫晧は孫策の再来といわんばかりの人物である!」
なんて濮陽興と張布に働きかけたのがもっともの原因になるんですけどね。
それに二人がまんまとのっかってしまうわけです。
とにもかくにも孫晧が皇帝に即位したことで、
滕芳蘭は皇后に任じられます。
そして滕芳蘭の父親である滕牧は、
棚からぼた餅的な感じで出世!
これにより滕牧は、高密侯に封ぜられただけでなく、
衛将軍・録尚書事といった高役職までもが与えられたのでした。
その後の滕牧
娘のお陰で大きく出世することができた滕牧でしたが、
孫晧の暴政が行われ始めると、
滕牧の勢いにも陰りが見え始めてきます。
そんな孫晧の暴政に対して、
孫晧を諌めに諌めたばかりに煙たがれはじめたわけです。
またそれだけではなく、
孫晧の滕芳蘭へ対する寵愛も薄れた事も後押しになり、
事態は悪い方向へと向かっていきます。
その結果、滕牧は蒼梧郡へと左遷され、
現地へと向かう途中、失意の中で没することに・・・
最後に余談ですが、滕牧の娘である滕芳蘭はというと、
孫晧の母親である何姫のお陰もあり、
寵愛を失いながらも最後まで皇后の位を剥脱されることはありませんでした。
そして280年に呉か晋によって滅亡させられても、
孫晧に最後まで付き従ったといいます。
そして最後は滕芳蘭に見届けられながら、孫晧はこの世を去ったのでした。
それからの滕芳蘭がどうなったかというと、
洛陽で死んだという記録が残るのみとなっています。