孫晧の佞臣の筆頭として、よく名前が挙がるのは万彧だったりしますが、

 

他にも陳声・張俶・岑昏・何定らといった、

呉を滅亡へと導いた何かしらの要因を作った者達がいたりします。

 

今回紹介する奚熙けいきもその一人ですね。

陸凱の言葉から分かる奚熙という人物

奚熙が小人物であることは、

陸凱の言葉としても現在に伝わっていたりします。

 

 

ちなみに陸凱は陸遜の一族で、

 

暴君として恐れられた孫晧に対しても、

ズバズバ意見を通した人物としても知られています。

 

 

そんな陸凱が死の間際に孫晧に遺した言葉が、

「奚熙は小役人の身分でありながら

浦里に水田をひらくことを計画しています。

 

これはかつて厳密がやった事と同じで、

絶対に許可してはいけません!」

といったものでした。

 

 

この文章からだけでは、

何が言いたいのか伝わりにくいと思いますが、

 

省略して分かりやすく言い直すと、

「奚熙は佞臣である!」ということですね。

 

この話は陸凱がなくなった269年の話になります。

諫言に次ぐ諫言

 

ある時に奚熙は、賀邵の弟であった賀恵を諫言したことがありました。

 

 

これを聞いた孫晧は事実確認の意味でも、

徐粲を賀恵の元へと派遣!

 

 

 

そうすると次に奚熙が取った行動は、

 

「徐粲が賀恵の肩を持っている事が判明し、

そのせいで裁断を引きのばしているようですよ!」

と今度は徐粲を諫言して罪をなすりつけたのでした。

 

孫晧は奚熙の話を信じて徐粲を処刑!

 

 

また最初に奚熙によって諫言を受けた賀恵もまた捕らえられ、

裁判にかけられることに・・・

 

しかし偶然にも大赦が行われたことで、幸運にも賀恵の罪は許されて釈放されていますね。

孫晧死亡の噂

それから少しい時間が経過した274年には、

奚熙は臨海太守に任じられていましたが、

 

そんか折に会稽郡では

「孫晧が亡くなった!」

「孫晧の舅子おいにあたる何都が跡を継いだ!」

という噂が流れたことがありました。

 

 

聞きなれない言葉かもしれませんが、

「舅子」とは妻の兄弟という意味合いがありますが、

 

はっきり言って孫晧の妻に何氏なんて普通にいませんから、普通に考えて誤文でしょうね。

 

まぁ普通に考えたら何姫・何植の兄弟にあたる、

何洪かこう何蔣かしょうのどちらかの息子というのが自然だと思います。

 

 

とりあえずこのあたりは誤文であったり、

 

年代的に矛盾があったりで整理されてないような記載が所々に見られますから、

自分なりの解釈は大事だと思われます。

 

 

 

ただ他にも噂がたったのは何都ではなく、孫権の五男にあたる孫奮であったり、

孫策の孫にあたる孫奉が跡を継ぐという話もあったりしますね。

 

まぁここでは話を繋ぎ合わせた際に、その後の流れが綺麗だと判断したこともあり、

何都の噂を前提に話します。

 

 

書かれてあることが記載内容によってズレがあったりしている点からも、

孫奮・孫奉の噂は個人的には疑問点もあったり・・・

 

 

他にも次の所で記載しますが、

そもそもデマを信じて274年に反乱を起こしたはずの奚熙ですが、

 

孫晧に270年に殺害された孫奮・孫奉が生きている点でも不自然ですしね。

引き籠もったら死んだと思われた孫晧(孫皓)

奚熙の最後

この時に奚熙は孫晧死亡のデマを信じ、

会稽太守であった郭誕に書簡を送って、

 

何都を非難しただけでなく、

何都を誅殺しようと兵を都へ進めたと言われています

 

ちなみに鳳凰三年とあるので、鳳凰元年が272年にあたるので

鳳凰三年は274年にあたる時期になります。

 

 

 

ただ孫晧が死んだというのはデマで、

 

普通に孫晧は生存しており、

奚熙の行動は郭誕によって孫晧の耳に入ることとなります。

 

これにより孫晧は奚熙を捕らえるべく、

何都の叔父にあたる何植(何姫の弟)を派遣!!

 

 

 

それに対して奚熙は、防御体制を敷いて抵抗します。

 

 

しかし奚熙の抵抗は空しく、

可愛がっていた部下の裏切りにあって終了!

 

奚熙の首は孫晧の元へと送られ、一族は皆殺しに・・・

万彧(ばんいく) -孫皓即位に尽力した呉の佞臣代表-