群雄の一人である韓馥と言えば、

袁紹に冀州(鄴)を奪われた人物としても知られていますが、

 

韓馥は臆病な性格も相まって、

臣下の者達をうまく使えなかった人物でもありますね。

 

 

ただそんな何もできなかった感が強い韓馥ですが、

臣下には後に袁紹を代表するような優れた人物が多くいたのも事実なんですよね。

 

田豊・沮授・審配なども韓馥に仕えていましたし、

最後の最後まで韓馥に忠誠を尽くした閔純・耿武もそうですね。

 

今回はそんな閔純・耿武についての話になります。

韓馥 -性格が災いして全てを失ってしまった臆病者-

閔純(びんじゅん)&耿武(こうぶ)

閔純別駕従事を務めた人物ですが、

別駕従事は「別駕」と省略されることも多い役職になります。

 

別駕従事の役職を簡単に説明すると、

韓馥が冀州牧なのでその副冀州牧みたいな感じですかね。

 

〈別駕を経験した人物の例〉

  • 袁紹→田豊・沮授
  • 陶謙→麋竺
  • 劉表→韓嵩・劉先
  • 劉璋→張肅・張松
  • 劉備→陳羣

 

 

閔純はKOEIの三国志(13・14)にも登場していますが、

 

そこでは閔純ではなく、

三国志演義で使われた名前である関純という名で登場していますね。

 

 

ちなみに耿武も別駕従事を歴任した一人になります。

その後、長史に任じられていますが・・・

 

この事は「後漢書」袁紹伝記載が残されていますね。

 

また閔純同様に耿武もまた、KOEIの三国志(13・14)に登場しています。

袁紹を拒絶した二人

後漢王朝きっての名門出身で、反董卓連合盟主を務めた袁紹だったりしますが、

 

食糧事情に苦しんでおり、

冀州牧であった韓馥に援助をしてもらっていました。

 

 

そんな袁紹ですが、韓馥に牙を向き、韓馥の冀州牧の座を奪おうと画策します。

まぁこれは逢紀の提案であるのは余談です。

 

 

袁紹は公孫瓚を利用して韓馥を攻めさせ、

「自らは韓馥を助ける」という名目で侵入を試みたわけです。

 

助けに船と思った韓馥は袁紹の入城を歓迎していますが、

ここで大きく反対したのが閔純・耿武の二人でした。

 

 

正確にはこの時に沮授も韓馥に仕えていましたが、

閔純・耿武同様に袁紹を入城させることの危険性を説いています。

 

 

しかし三人の声は韓馥には響かず、袁紹を迎え入れることに・・・

その結果として韓馥は、半ば強制的に冀州を奪われてしまったのでした。

 

ただここで最後まで韓馥の味方だったのが、

閔純・耿武の二人で、韓馥の側で剣を構えて袁紹を威嚇したのです。

 

 

 

ただ既に韓馥に愛想をつかして袁紹の従う者達も多く、田豊もその中の一人でした。

そして田豊は袁紹から命令を受け、閔純・耿武を殺害してしまったわけです。

 

 

 

耿武は横山光輝三国志にも登場し、

一人で袁紹を殺害しようとする描写で登場していますね。

 

ただ袁紹の部下に何度も斬られて無残に殺害されていますが・・・

横山光輝三国志(6巻114P・115P)より画像引用

その後の韓馥

完全に居場所もなくなってしまった韓馥ですが、

袁紹の元から半ば逃亡する形で、張邈の元へと身を寄せます。

 

まぁ軽く補足ではありますが、袁紹には許可を取って張邈の元へと身を寄せてはいますね。

 

 

それからしばらくして、張邈の元に袁紹の使者がやってきたことがありました。

 

 

張邈と使者がこそこそと耳打ちをする仕草があったのですが、

 

それを見た韓馥は、

「殺されるのではないか!?」

と思って厠で自殺して果てたといいます。

 

 

冀州牧という地位を持ち、多くの優秀な人物を従え、

土地柄にも恵まれていただけに、

 

少しの勇気を出し、袁紹と雌雄を決さなかった己の判断を、

最後の最後に悔やんだかもしれませんね。