三国時代で、立地的にも官位的にも恵まれていただけでなく、

部下にも優れた人物が沢山いながら、

 

臆病過ぎた性格のせいで、

悲惨な最後を迎えることになった人物がいます。

 

 

それが今回紹介する韓馥になりますね。

韓馥(かんふく)

韓馥潁川郡の出身ですが、

荀彧・荀攸らと同じ所の出身地になります。

 

韓馥が飛躍するきっかけとなったのは

実は董卓のお陰だったりするんですよね。

 

 

董卓が献帝を擁立し、独裁政治を行い始めるわけですが、

この時に韓馥はちゃっかり冀州牧に任じられています。

 

ちなみに冀州は非常に土地が豊かな場所の一つであったのは言うまでもないですね。

 

 

そういったことからも、

韓馥にとって董卓は恩ある相手でもあったと言えるでしょう。

董卓 -三国乱世を加速させた暴君-

董卓勢力と反董卓勢力の間での葛藤

基本的にのほほんと過ごしていた韓馥ですが、

独裁政治を続ける董卓に対して、世の中の流れは反董卓へと傾いていきます。

 

そんな中で董卓に敵対意識を持っていた袁紹(渤海太守)が、

挙兵する動きを見せ始めます。

 

 

渤海は冀州牧であった韓馥の管轄エリアであったことからも、

 

董卓からの叱責を恐れて、

韓馥は袁紹を挙兵させないように徹底監視!!

 

 

 

しかしここで東郡太守であった橋瑁が、

反董卓の檄文を各地に送りまくったわけですよね。

 

内容は「董卓を討て!」というものでしたが、

この言葉が三公からの言葉だと言いながらの完全な橋瑁の嘘であったのは秘密です。

 

 

三国志演義では曹操が檄文を作ったような設定になってますけど、

正式な所は橋瑁が正しいですね。

 

 

 

この檄文は韓馥の元にも届くわけですが、

どうしたら良いか完全に韓馥はテンパってしまいます。

 

 

そんな韓馥に助言したのが、

治中従事であった劉子恵だったわけですが、

 

「とりあえず誰かに挙兵させて、

それに韓馥様もちゃっかり乗っかちゃいましょう。

 

最悪失敗したとしても首謀者でなければ、

なんとでも理由はつけられますし、

董卓討伐に成功した際にも恩恵に預かれますからね!」と進言!!

 

 

劉子恵の言葉を聞いた韓馥は、

全力でその言葉に乗っかります。

 

 

 

そして反勢力その有力候補だったのが、

韓馥が監視をしていた名門出身の袁紹でした。

 

 

そんな袁紹が挙兵すれば、

袁紹に続く者達が現れる事も予測できていたでしょうから、

 

韓馥は袁紹に対する監視の目をわざと緩め、袁紹が挙兵しやすいような背景を作り上げたわけです。

 

 

 

そして韓馥の思惑通りに袁紹は挙兵!

 

これに多くの者達が名を連ねるわけですが、当然の如く韓馥も参加します。

 

 

 

まぁ袁紹を盟主とする反董卓連合と董卓の戦いは、

 

一応洛陽を奪い返したことで、

反董卓連合軍が一応に勝利したのでした。

 

 

ただ董卓が洛陽から長安に遷都する際に洛陽は焼け払われてしまっており、

これといった収穫はなかったな等しく自然消滅してしまいます。

 

 

まぁ実際は自然消滅どころか、

血みどろの争いを各地で繰り広げていくわけですから、

 

董卓はからしてみれば、さぞかし愉快な展開だったでしょうね。

劉虞皇帝計画

反董卓連合は自然消滅した後の話になるのですが、

 

韓馥は袁紹と組んで献帝(董卓が擁立した皇帝)に代わって、

幽州刺史であった劉虞を新皇帝に擁立しようと画策します。

 

 

董卓も董卓ですが、

袁紹や韓馥も同じ穴のムジナといった所でしょう。

 

やってることはどちらも皇帝を蔑ろにしている行為なのですから・・・

 

 

ただこの劉虞擁立計画は実現されず、白紙となってしまいます。

 

何故なら当の本人である劉虞が、

その計画に賛同することがなかったからです。

 

 

董卓絡みから互いに近い立場にあった韓馥と袁紹ですが、

このあたりから二人の間に亀裂が生まれてくる事になります。

 

 

そして袁紹は逢紀の冀州奪取計画に乗り、

韓馥から冀州牧を半ば強制的に奪い取ってしまったのでした。

 

袁紹は冀州を奪う為に公孫瓚を騙して利用したこともあり、

今後袁紹と公孫瓚の争いは激化していくこととなります。

逢紀(ほうき) -冀州奪取の立役者-

韓馥の最後

袁紹に冀州牧を奪われた韓馥がその後どうなったかというと、

袁紹により奮威将軍を任じられますが、結局袁紹の元から去ってますね。

 

そして韓馥は流れに流れて張邈を頼って落ちのびます。

 

 

多くを失ってしまった韓馥ですが、

最後は残された余生をのんびりと過ごせればよいと思ったのかは分かりませんが、

 

張邈の元でのんびりと過ごしていたといいます。

 

 

そんな張邈の元に袁紹の使者がやってきたことがありました。

 

張邈と袁紹の使者が話を交わすわけですが、

その席にかつての冀州牧であった韓馥も同席していました。

 

 

そんな中の一コマで、袁紹の使者が韓馥に聞こえないように、

大事な話を張邈の耳元で話したといいます。

 

 

その様子を見ていた韓馥は、

「私を殺す為の密談ではないか!?」

疑心暗鬼に陥ってしまい、

 

席を立って厠に向かうと、そのまま自害してしまうことに・・・

韓馥のもしものお話

冀州牧という立場にあり、優れだ部下 を持ちながら、

乱世の荒波に一石も投じることなく消えていった韓馥・・・

 

冀州を受け継いだ袁紹はこの地盤をベースに乱世を駆け抜けていくわけですから、

これ以上ないに等しいぐらいに土地柄にも恵まれているのは言うまでもありませんが、

 

韓馥の最も惜しむべきことは彼に仕えていた優れた部下達でしょう。

 

 

後に袁紹に仕えることになる智謀の士として知られる田豊・沮授だけでなく、

後に曹操を何度も撃退した鄴の戦いで袁家の意地を見せつけた審配、

 

他にも後に魏の五大将軍と呼ばれることになる張郃もまた、

この時は韓馥に仕えている状況下でした。

 

 

他にも袁紹を警戒し、徹底抗戦を主張した耿武・閔純も優れた人物でしたし、

 

公孫瓚を実質滅亡に向かわせるきっかけを与えた、

野戦のスペシャリストであった麹義もまた韓馥に仕えていたんですよね。

袁紹軍随一の野戦上手、麹義(きくぎ)

 

 

 

また冀州牧であったころに同郷であった荀彧を招いており、

荀彧も韓馥の元を訪れていたんですよね。

 

ただ到着した頃には韓馥は冀州牧を袁紹から奪われてしまっていた後で、

荀彧は流れのままに袁紹に仕えるわけですが、一瞬で袁紹の元を去って曹操に仕えています。

 

 

もしも韓馥が勝れた人物だったならば、袁紹や曹操が地盤を築くことはなく、

一大勢力を築けていたのは韓馥だった可能性は十分にあると思いますね。