谷利(孫権の側近)

孫権の側近で使い走りをしていた人物に、谷利こくりという一風変わった名前の人物がいました。

 

生真面目な性格で、孫権からの信用も厚い人物だったといいます。

谷利の素性は一切不明ではありますが、一説には奴隷であったとも言われています。

もともと谷利は孫権の側で雑用的な事やっていましたが、謹直な性格から親近監しんきんかんに任じられています。

 

また谷利は忠義心に厚く、無責任なことを口にしなかったので、孫権より寵愛を受けており、

「呉志」呉主伝(裴松之注「江表伝」)に記録が残されている人物になります。

孫権の命を救った第二次合肥の戦い

谷利の名前が登場するのは、

建安二十年(215年)に勃発した合肥の戦い(第二次)になります。

 

孫権は十万人という兵力で合肥へと兵を向けたわけですが、

この時に合肥を守っていたのは、張遼・李典・楽進らが率いる七千の兵士のみでした。

 

この時の曹操は漢中方面の対策をしていたわけですが、

もしもの時の事を考えて、曹操は薛悌せつてい指示書が入った箱を保管させていました。

 

そして孫権が合肥へ兵を向けたことで、

薛悌はその箱を開いて指示書を張遼らに見せたわけですが、

「張遼と李典の二人は出撃し、楽進は城を守りなさい。」と書かれてありました。

 

張遼と李典はその指示に従って出撃し、相手の出鼻を挫くことに見事に成功します。

またその後はサッと城へ引き揚げ、籠城の構えを取ったのでした。

 

この時に張遼・李典が率いた兵は、たったの八百人だけだったといいます。

少数兵しかいなかった合肥城に、勢いそのままに城に近づける事の危険性を曹操は理解していたのでしょう。

 

 

出鼻をくじかれてしまった孫権でしたが、

なんとか合肥を攻略しようとするも戦果は上がらず、十日程度で包囲を解いて撤退を開始します。

 

大軍であるが故の食料不足、もしくは疫病の問題も出たのかもしれませんし、

士気も上がらずの状況だったのかもしれません。

 

孫権の軍勢が逍遥津にまで撤退し、

その際に孫権は将軍らより先に兵士の者隊を先に撤退させていたようで、

残っていたのは近衛歩兵千人のみだったといいます。

 

またこの時に孫権以外に、呂蒙・凌統・甘寧・蔣欽らが殿として残っていたものの、

張遼が急襲してきた事で多くの者達が討たれ、孫権にも命の危険が迫ります。

 

そんな中でなんとか逍遥津にかかる津橋まで到達した孫権ですが、

その時に津橋の一部が既に破壊されていました。

 

橋が壊れていることに躊躇している孫権に対して、

谷利は孫権の乗る馬に鞭を入れて勢いをつけさせ、そのまま橋を飛び越えさせました。

これによって孫権は無事に撤退することに成功し、孫権は子の恩に報いて谷利を都亭侯に封じたといいます。

進水式での出来事

谷利の名前が次に登場するのは、黄武五年(226年)になります。

孫権は武昌で造らせた大型船を長安と名付け、釣台沂において進水式を執り行ったわけですが、

「水経注」によれば、長安には二千人以上の人が乗る事が出来る程の大きさだったといいます。

 

孫権は航羅州まで進むことを望むものの、

谷利は舵取りに対して剣で脅し、武昌のすぐ近くにある樊口で船を停泊させるよう命じ、

船は樊口に到着したわけですが、風が更に強くなったことでそこから普通に引き返しています。

 

後日になり、孫権がこの出来事を引き合いに出し、

谷利を臆病だとからかいますが、谷利は次のように述べたといいます。

船が転覆して主君を失うことを恐れ、

それが命令違反で死罪になるとしても覚悟の上でのことであった。

この言葉に孫権は心を打たれ、それ以降は谷利を特別に重んじるようになり、

孫権は彼を名で呼ぶことをやめ、親しみと敬意を込めて、ただ「谷」と呼んだと伝えられています。