貧しさの中心にいた歩騭

若かりし頃の歩騭(歩隲)は、

徐州にて貧しい生活を送っていたようで、

 

昼は懸命に働きながら、一方で夜は勉学に励んでいたといいます。

 

 

そんな中で徐州が戦火に巻き込まれると、

徐州から南方地域へと避難していくわけですが、

 

その際に歩騭と共に行動していたのが衛旌という人物でした。

 

 

二人は会稽郡の豪族のもとで仕事をする事になりますが、

見下されたり、馬鹿にされた待遇を受けます。

 

それに対して衛旌は憤慨したわけですが、

「歩騭は常に冷静な態度を貫いていた」といいます。

 

 

 

例えば貧しい食事を出された際には、

 

「もともと貧乏人なのだから当然のことではないか?

何を恥ずべきことがあるのだ!」

と言ったような逸話だったり・・・

 

 

 

そんな生活の中で、

歩騭は士官する機会に恵まれるものの、

 

不運にも一年後に病気になってしまい、

官を退いて養生を余儀なくされています。

 

 

それから歩騭の病状が改善すると、

諸葛瑾・厳畯とともに呉郡へと移っていったといいます。

 

 

 

共に呉郡へ移動した記録はないですが、

徐州から共に流れてきた衛旌も後に呉に仕えていますね。

 

 

ある時に歩騭が皇太子の孫登から、

 

荊州の人材について尋ねられた際に、

11名の人物を揚げたのですが、その中の一人に衛旌の名前も入っていたりします。

 

ちなみに衛旌以外の10名として、

「諸葛瑾・陸遜・朱然・呂岱・潘濬・裴玄・

夏侯承・李粛・周条・石幹」が挙げられています。

孫権への仕官&交州平定

孫権が討虜将軍に任じられると、

歩騭は孫権から召し出されて仕えることとなります。

 

そして歩騭は「主記」に任じられ、

その後に海塩県の県令を任されています。

 

また孫権が車騎将軍に任じられると、

車騎将軍府の東曹掾に歩騭が任じられたりもしていますね。

 

 

210年には新たに作られた鄱陽郡の太守に、

歩騭が任命されることとなりますが、

 

 

それから間もなくして、交州刺史に任じられることとなり、

順調に出世していく事となったのでした。

 

 

ちなみに交州は長らく士燮を筆頭に、

その一族が実質上支配していた地域でもあります。

 

 

つまり孫権はそこに「歩騭というメス」を入れたわけです。

 

任地に赴いた歩騭でしたが、

翌年には使持節・征南中郎将に任命されてますね。

 

 

 

そのように長らく士燮の一族が支配してきた交州ですが、

呉巨が孫権の力を利用して独立を企てます。

 

 

そもそも呉巨という人物は劉備の幼馴染であり、

かつて長坂の戦いで曹操に敗れた際に劉備が頼ろうとした人物でもあります。

 

 

ただ劉備と協力して曹操にあたることを考えていた魯粛は、

 

「あんなやつと組んでも意味が全くない!」

と一蹴した話が残っていますね。

 

魯粛の言葉を聞いた劉備は呉巨を頼らず、

孫権と同盟を結んで曹操を赤壁で破っています。

 

 

 

そして話を戻しますが、

 

「呉巨が上辺だけで孫権に近づいてきた!」

と察した歩騭は、あべこべに呉巨を殺害してしまいます。

 

 

また士燮は孫権に抵抗することはせず、

恭順の道を選択し、

 

後に歩騭が交州刺史に任じられることとなったのでした。

 

 

歩騭は孫権になびいていなかった夷廖・銭博を討伐し、

見事に交州平定を成し遂げています。

武陵蛮牽制

呂岱が新たに交州刺史となると、

歩騭は新たな任地である長沙に向けて出発したわけですが、

 

歩騭を慕う者が非常に多く、

その数は一万人にものぼったといいます。

 

 

そんな折に夷陵の戦いが勃発したのですが、

 

沙摩柯ら武陵蛮が劉備に味方したことで、

歩騭には「武陵蛮を牽制する役目」が与えられます。

 

そして見事にその役割を期待通りに成し遂げ、

右将軍・左護軍に任じられ、臨湘侯にまで封じられます。

 

西暦的には223年の出来事になりますね。

雍闓と孫権の橋渡し

また益州南部で大規模反乱を起こした雍闓が、

孫権と通じていた事からの反乱だったのは知られた事実ですが、

 

雍闓と孫権の間を取り持ったのも歩騭になります。

 

 

「三国志演義」では、南蛮の反乱として、

孟獲が首謀者として描かれていますけど、

 

実際のところは雍闓がきっかけとなって起きた反乱ですね。

 

 

「では孟獲は実在しなかったのか?」

というとそうではなく、雍闓に加勢する形で参加していますし、

 

雍闓が殺害された後は、

孟獲が反乱軍を引き継いだような形になっていますね。

 

 

そんな孫権と通じて反乱を起こした雍闓ですが、

 

劉禅と孫権の関係が改善されると、

あっさり雍闓は捨てられてしまいます。

 

 

ちなみに歩騭は「雍闓を味方につけた功績」から

平戎将軍をに任じられただけでなく、広信侯にも封じられています。

 

また孫権が皇帝を名乗った229年には、

驃騎将軍にまで昇進しています。

西陵督

そしてその後に歩騭の一族によって受け継がれていくことになる、

「西陵督」になったのもこの時期です。

 

 

ちなみに歩騭が任じられる前の「西陵督」は、

陸遜が任じられており、

 

この「西陵」いう土地が呉にとってどれほど重要な土地であったことが、

この二人を見るだけで分かりますね。

 

 

ちなみに「西陵」と聞き慣れない人もいるかもしれないので補足しておくと、

もともと「夷陵」と呼ばれていた場所になります。

 

「夷陵」と言って真っ先に思い浮かぶのは、

「夷陵の戦い」ですよね。

その後の歩騭

 

また孫権が呂壱を重用した際には、

顧雍・潘濬・諸葛瑾・陸遜の言葉に耳を傾けるようにも進言していますね。

 

その後に孫権は己が間違っていた事に気づくと、

呂壱を処刑して皆に詫びといった話も残っています。

 

 

歩騭は呂壱事件後も間違っていると思った事に対しては、

遠慮せずに何度も孫権に上奏したといいます。

 

そんな中で皇太子の孫登が早世すると、

孫和と孫覇による「二宮の変」が発生し、

 

歩騭は孫覇を支持し、

立場的に孫和を指示する陸遜・諸葛瑾らと対立することに・・・

 

 

そして245年に「二宮の変」の犠牲となった形で陸遜が没すると、

翌年に丞相に任じられていますが、

 

ただ247年に歩騭は亡くなってしまっていますので、

一年足らずだったことになりますね。

 

 

歩騭は「西陵」という地の都督として二十年間守り抜き、

 

歩騭亡き後は息子である歩闡ほせんに引き継がれていく事となりますが、

歩闡が晋に通じた事で歩騭の一族は滅亡の道を歩むこととなります。

 

 

ただ歩闡が272年に、

孫晧が歩闡を「西陵督」から「繞帳督」に任じ、

 

武昌に戻るよう命じた事がきっかけで、

誅殺を恐れての反乱であったことは覚えておきたいところです。