諸葛瑾の出生について

劉備に仕えた諸葛亮の兄にあたるのが諸葛瑾ですが、

父親は一般的に諸葛珪だと言われています。

 

 

ただ諸葛瑾と諸葛亮の父親や母親が違う説(異父説や異母説)も普通にあるのも事実です。

 

そして「諸葛亮伝」では、

諸葛珪の息子であると記載されていますが、

 

「諸葛瑾伝」の方には記載がありません。

 

 

また二人の父親が諸葛珪が父親であった場合の矛盾点があったりもしますし、

あざな」の法則からも父親である諸葛珪が「子貢」であるのに対して、

諸葛瑾の字は「子瑜」で、この点だけで見ても不自然さがかなりあったりします。

 

親の名前に「子」がついており、

それを子供の字に用いるとは普通に考えてありえません。

 

同じ漢字を兄弟全員につけることはよくあったりしますが・・・

 

 

例えば一番分かりやすい例を出すと、

兄弟で同じ「子」が使われている曹操の息子達ですよね。

  • 曹昂(子修)
  • 曹丕(子桓)
  • 曹彰(子文)
  • 曹植(子建)
  • 曹熊(子威)
  • 曹峻(子安)

 

 

「子」ではありませんが、

同じ漢字を使われている兄弟は他にも沢山存在しています。

 

「司馬八達」で知られる司馬懿もそうでしょう。

  • 司馬朗(伯達)
  • 司馬懿(仲達)
  • 司馬孚(叔達)
  • 司馬馗(季達)
  • 司馬恂(顕達)
  • 司馬進(恵達)
  • 司馬通(雅達)
  • 司馬敏(幼達)

 

 

この点で考えた場合、諸葛珪の息子を諸葛瑾とするよりも、

諸葛珪と諸葛瑾を同じ兄弟とみる方が自然なわけです。

 

 

 

こういったように諸葛亮と諸葛瑾の双方を、

諸葛珪の息子であるとするには、

 

矛盾すべき点も実際にあることから、

二人の父親はあくまで不明としておきたいと思います。

 

 

ただ諸葛亮と諸葛瑾が兄弟というのは様々な文献からも間違いないと思うので、

 

父親、もしくは母親が違ったとしても年齢が近い異父兄弟、

もしくは異母兄弟であったとは思っていますね。

諸葛瑾&孫権

諸葛瑾徐州琅邪郡生まれですが、

世の中が乱れてくると揚州へと流れていったようです。

 

一方の諸葛亮らは諸葛瑾と別れる形で叔父の諸葛玄に従っています。

 

 

そして諸葛瑾は孫権の姉婿であった弘咨での出会いをきっかけに、

孫策の後を継いだばかりの孫権に仕えることになり、

 

孫権からも高い評価を受け、絶大な信頼を得ていくこととなります。

 

 

曹操の火の手が荊州や揚州におよびだすと、

劉備は諸葛亮を孫権の元へと送り、同盟を締結させています。

 

 

正確には曹操の南下状況を把握する為に、

魯粛が荊州へと赴いていたわけですけど、劉琮は既に曹操に降伏していました。

 

そんな中で曹操に抵抗していた劉備に目を向け、

勝手に同盟締結へ向けて動いたというのが正しい流れですね。

 

 

孫権は諸葛亮の優秀さに気づき、

諸葛瑾に命じて仲間へ引き入れるように言った事がありました。

 

しかし諸葛瑾は、

「私が貴方様を裏切らないのと同様で、

弟である亮も劉備殿を裏切る事はないでしょう。」

と返して孫権が喜んだという逸話が残っていたりします。

 

 

そして孫権と劉備の連合軍が赤壁の戦いで曹操を破る事に成功すると、

 

劉備は荊州南部の四郡の制圧をきっかけに

荊州領地問題で度々両者がぶつかっていくこととなります。

天下三分の一端を担った孫権(仲謀)

諸葛瑾&劉備

劉備が劉璋を降して益州を手に入れると、

荊州返還の使者として派遣されたのが諸葛瑾であり、

 

「涼州を獲得したらお返しする」

と劉備に軽くあしらわれた事で交渉に失敗していますね。

 

 

もともと魯粛を通して、

劉備が孫権から借りていた領地は南郡(江陵)だけだったと思われるので、

どこを正式に借りていたというのは難しいところであったりはします。

 

ただ孫権としては荊州南部の四郡について、

正史の記録はあくまで呉側からの記述に過ぎなかったりしますしね。

 

 

また兵站的な問題から、

南郡返還は到底無理だというのは一目瞭然で、

 

代理案として荊州南部を要求したというような可能性は勿論あるかと思います。

 

 

とりあえず劉備の涼州発言がきっかけとなり、

孫権は呂蒙や魯粛に命じて荊州へ侵攻を命じています。

 

孫権としては我慢の限界による武力行使だったのでしょう。

 

 

そして呂蒙は孫権の期待に応え、

長沙・桂陽・零陵の三郡の制圧にあっさり成功しています。

 

 

劉備自身も五万の軍勢を率いて公安(荊州)へ赴き、

関羽に命じて南下させたわけですが、魯粛により普通に封じ込められています。

 

そんな中で、

「曹操が漢中の張魯を降すべく出陣した」

という話が耳に入ってきた劉備は、

 

曹操と孫権の両方を相手にする可能性に恐れ、

孫権へと和議を申し込んでいます。

 

 

孫権と劉備は湘水を境に和議が成立し、

武陵郡・零陵郡を劉備領とし、長沙郡・桂陽郡は孫権領としたのでした。

 

またこの時に諸葛瑾を再び益州へ派遣した話が残っていますね。

 

 

その後関羽が北上して樊城攻略に乗り出すわけですが、

孫権は曹操と手を結び、関羽の背後を襲っています。

 

そして公安の傅士仁(士仁)と江陵の麋芳が寝返った事で、

最終的に関羽は捕らえられて処刑されてしまいました。

 

 

孫権は荊州奪取に成功したわけですが、

 

諸葛瑾はこの時の手柄により綏南将軍に任じられ、

呂蒙死後は南郡太守を任せられていますね。

 

 

 

劉備が「関羽の復讐」という気持ちも含めつつ、

荊州へと攻め入ってきた際に、諸葛瑾が説得に試みるも失敗に終わっています。

 

そして双方の激突が避けられなかったわけですが、

陸遜の火計によって、劉備は夷陵にて大敗を喫しています。

 

 

また諸葛亮との関係から、

諸葛瑾が内通を疑われることもあったようですが、

 

孫権は諸葛瑾を信じて全く疑う事もなかったという逸話も残っていますね。

劉備 -流浪の果てに皇帝まで上り詰めた英雄-

三方面の戦い(江陵の戦い)

曹操亡き後を曹丕が継いだわけですが、

 

曹丕は「劉備が敗れるだろう事と、

呉が勝利した勢いのまま益州へと侵攻すると事」を考えていたのですが、

 

 

多くの者達が益州侵略を主張する中で、

 

陸遜・朱然は「魏を信じることなかれ!」の意見から、

魏への対応として撤退することを選択しています。

 

 

そして陸遜・朱然の思惑通り、

曹丕が三方面から呉へと侵攻を開始し、

 

江陵を守る朱然の元へも十万人にも及ぶ魏兵が押し寄せてきました。

 

 

江陵に攻め込んできた者達は、総大将であった曹真をはじめ、

夏侯尚・辛毗・張郃・徐晃・満寵・文聘などそうそうたる面子でしたが、

 

朱然は五千人程度で、

見事に魏軍の撃退に成功しています。

 

 

ちなみにこの時の戦いでは、孫権の命令を受けて、

諸葛瑾が江陵城へと援軍として送られるわけですが、

 

「不甲斐ない結果に孫権を失望させた」といいます。

 

 

ただ最終的に魏軍を撤退に追い込んだ浮橋への攻撃で、

孫権から称賛され、左将軍に任じられると共に「公安の督」に任じられていますね。

 

またそれだけではなく、宛陵侯にも封じられています。

 

ちなみに朱然は、江陵戦での功績により、

永安侯から当陽侯に改封されていますね。

曹丕 -漢を滅ぼし、魏を建国した初代皇帝-

その後の諸葛瑾

229年に孫権が皇帝を名乗って「呉」を建国すると、

諸葛瑾は大将軍に任じられています。

 

 

またそれから五年後の234年には、

諸葛亮の第五次北伐に合わせる形で孫権も北伐を実行していますが、

 

この時に諸葛瑾が陸遜と共に襄陽へと兵を進めたまではいいものの、

情報が漏れたことによってあっさりと撤退をしていますね。

 

 

 

ただ陸遜と諸葛瑾は襄陽からの撤退途中で、

 

少しでも結果を残したいという思いからか、

江夏郡の新市・安陸・石陽へと急襲を仕掛けていますが、

 

この急襲で大きな混乱を起こしたのが石陽の民衆で、

江夏郡の安陸・石陽を攻め落とすことに成功しています。

 

 

この戦いで三国志に注釈を加えた裴松之が、

驚くほどに陸遜を批判したりしてたりするのは余談です。

 

どうせなら諸葛瑾も批判されるのが妥当なはずですが、

裴松之の陸遜だけに対する非難が尋常じゃないですね。

 

「一族が滅亡したのも全て陸遜のせいだ!」

という始末ですから・・・

 

 

そんな諸葛瑾でしたが、

241年に歩騭と共に柤中を占領する事に成功したのを最後に、

 

諸葛瑾は天寿を全うする形で没しています。

 

 

そんな諸葛瑾の最期の言葉は、

 

「私の葬儀は質素に済ますように・・・」

というものでした。

 

 

後に東晋の袁宏が、

「三国名臣序賛」を著した際に、

 

三国(魏・呉・蜀)時代の二十人の人物が、

「名臣」として称賛されていますが、

 

その中の一人に諸葛瑾の名前が挙げられています。

 

 

ちなみにですが魏からは九人

(荀彧・荀攸・袁渙・崔琰・徐邈・陳羣・夏侯玄・王経・陳泰 )、

 

蜀からは四人

(諸葛亮・龐統・蒋琬・黄権)、

 

そして呉からは諸葛瑾以外に六人

(周瑜・張昭・魯粛・陸遜・顧雍・虞翻)が挙げられています。

 

 

また魏の諸葛誕、蜀の諸葛亮と並んで諸葛瑾を「虎」と称し、

 

「蜀はその龍を得、呉はその虎を得、魏はその狗を得たり」

と称賛された逸話も有名ですね。