2023年9月27日(水)に、

 

諸葛亮孔明(向井理)と月見英子(上白石萌歌)を主演とする

「パリピ孔明」が放送されましたね。

 

諸葛亮三国時代の蜀を支えた丞相で、

世界中(特に日本)で人気が高い人物でもあります。

 

 

諸葛亮は五丈原の戦いで病没してしまいますが、

 

「パリピ孔明」では、

「死後と同時に現在の渋谷に転生する所」から始まります。

 

そこで出会ったのが、

歌手を目指していた月見英子でした。

 

 

ここでは諸葛亮の逸話であったり策略(計略)であったりと、

 

そういう視点に重きをなしながら、

「パリピ孔明」について書いていこうと思います。

 

 

また今後の諸葛亮の呼び名は、

タイトルに合わせて「孔明」で統一して話していくこととします。

諸葛亮&三国時代の簡単な御話

劉備から「三顧の礼」で迎えられた諸葛亮ですが、

赤壁の戦いを経て、荊州&益州の支配に成功しています。

 

そして定軍山の戦いで夏侯淵を破り、

漢中の支配にも成功するのでした。

 

 

 

その翌年の220年に曹操が病死すると、

 

曹操の息子であった曹丕が跡を継ぎ、

漢王朝(後漢)を滅ぼして「魏」を建国したわけです。

 

 

しかし漢王朝が滅亡していないことを知らしめる為にも、

劉備は諸葛亮ら臣下に推される形で漢王朝を復国させたのでした。

 

まさしく「蜀」の誕生ですよね。

 

 

 

ただ蜀は後世につけられた名称であり、

あくまで劉備が建てたのは「漢」であることは覚えておきましょう。

 

それらを合わせて「蜀漢」と一般的には呼ばれます。

 

 

また劉邦が建てた「前漢」、劉秀が建てた「後漢」と比較し、

「末子」の意味から「季漢」と呼ばれることもあります。

 

 

 

ちなみにこれは「あざな」の法則と同じ考え方になります。

 

 

「季」に関しては、長男・次男・三男・四男の「あざなに、

「伯/孟・仲・叔・季」をつけていく法則で、

 

ちなみに基本的に「季」が最後ではありますが、

五男が生まれた場合などは「幼」とつけられたりすることが多いです。

 

 

「馬氏の五常、白眉最も良し」の一人としても知られ、

パリピ孔明でも「泣いて馬謖を斬る」の逸話で登場する馬謖の「あざな」は「幼常」になります。

 

ちなみに諸葛亮を「尊兄」と呼んでいた、

馬謖の兄である馬良の「あざな」は「季常」として知られています。

 

 

この事から馬良が四男で、

その後に誕生した馬謖が五男であることがわかったりしますね。

 

 

話がだいぶそれてしまった感じがあるので戻しますと、

 

劉備は夷陵の戦いで陸遜に大敗し、白帝城への撤退に成功するも、

敗戦のショックから体調を崩し、そのまま帰らぬ人となります。

 

そんな劉備から後を託されたのが孔明でした。

 

 

劉備の意志を引き継いだ孔明は、劉備の子である劉禅を支えながら、

五度にわたる北伐を決行するも志半ばで没してしまうことになったわけです。

 

 

諸葛亮没後は、蒋琬や費禕や董允が蜀を支えていきますが、

 

彼らの死と共に蜀の命運は尽きていき、

諸葛亮が亡くなってから約30年後の263年に滅亡してしまいます。

 

 

また蜀を滅ぼした魏も265年に、

司馬炎(司馬懿の孫)に国を奪われるような形で滅亡・・・

 

また残された呉も280年に、

司馬炎の「晋」によって滅ぼされてしまうのでした。

「パリピ孔明」一話(其一/諸葛亮の死)

諸葛亮は人生において五回の北伐を行っていることは上でも述べた事ですが、

その中の第五次北伐になるのが五丈原の戦いになります。

 

この戦いの中で諸葛亮は病没していしまいます。

234年の出来事でした。

 

 

しかしこの234年に亡くなった人物として、

曹丕に「皇帝」の位を譲った献帝(劉協)が亡くなった年でもあります。

 

 

献帝は漢王朝(後漢)最後の皇帝であった人物ですが、

 

曹丕へ皇帝を譲った後は、

献帝は「山陽公」に封じられて余生をのんびりと過ごしていたといいます。

 

 

 

「漢王朝の象徴であった献帝」

「最後の最後まで漢復興を目指した諸葛亮」

 

そんな二人が同時に亡くなってしまった234年、

 

 

偶然にも二人が亡くなった234年に、

 

「蜀は色々な意味で滅亡した」

といってよいかもしれませんね。

 

 

ちなみに諸葛亮と献帝の生まれた年も、

181年と同じであるのは余談です。

「パリピ孔明」一話(其二/転生&月見英子との出会い)

五丈原の戦いの中で没した諸葛亮が目を覚ますと、

そこは渋谷の繁華街の中だったのです。

 

つまり時代を飛び越えて転生したわけですね。

 

そこで偶然にも出会ったのが月見英子でした。

 

 

月見英子の名前の由来は「黄月英」ですが、

黄月英は黄承彦の娘であり、孔明の妻でもありました。

 

 

この時代の人物で姓名が伝わっていない人物は沢山いますが、

女性は男性と比較にならないレベルで後世に名前が伝わらなかった人物が大半です。

 

黄月英もその一人で「黄夫人」「黄氏」と一般的に言われます。

 

「黄月英」以外にも黄婉貞こうえんていと呼ばれることもありますが、

これらは後世に付けられた名前になりますね。

 

 

 

黄月英の容姿は、

「孔明の嫁選びを真似るなかれ。

阿承(黄承彦)の醜い娘をもらう羽目になるぞ!」

という言葉も伝わるように不美人な女性でした。

 

 

父親である黄承彦も、

「金髪で黒肌で美人ではないが、

ただ才知に豊かな人物である」と言っています。

 

またそういう見た目から

「黄月英が西域人であった」という伝承も残っている女性だったりします。

 

 

「パリピ孔明」で登場する月見英子(漫画)は

金髪で青目の女の子として描かれています。

 

 

金髪である理由はいわずもがなですが、

 

青目で描かれているのは西域人という伝承」

を取り入れたからではないかと個人的には思っています。

 

 

ちなみに月見英子は黒肌ではなく、白肌の女の子になりますね。

「パリピ孔明」一話(其三/馬謖)

「泣いて馬謖を斬る」

の逸話でも知られる馬謖ですが、

 

街亭の戦いで張郃に大敗を喫してしまった事で、

北伐を台無しにした人物とされています。

 

多くの者達は魏延や呉懿を大将に推していましたが、

孔明が選択したのは愛弟子でもあった馬謖でした。

 

 

しかし馬謖は孔明の期待に応えられず、

街亭で敗北したことで処刑されてしまうことに・・・

 

ただその一点だけで処刑するのはナンセンスです。

 

「勝敗は平家の常」といいますし、

相手は魏の五大将軍の一人である張郃でした。

 

 

ちなみに馬謖が処刑された理由には諸説ありますが、

「街亭の戦いで敗戦後に漢中へ逃亡した」という記録が残っています。

 

おそらく敗戦後の処理がまずかったのでしょう。

 

 

だからこそ孔明は街亭の敗北の一点だけで、

 

「馬謖を処刑せざるを得なかったのではないか!?」

と想像しています。

 

 

ちなみに残された馬謖の妻子は、

その後も諸葛亮から変わらない待遇を受けたとされています。

「パリピ孔明」一話(其四/石兵八陣)

「石兵八陣」を実際に応用しながら、

月見英子への集客に見事に成功させたのですが、

 

もともと「石兵八陣」というのは、

「三国志演義」に登場する孔明の防衛に特化した岩陣になりますね。

 

夷陵の戦いで劉備が陸遜に大敗してしまい、

陸遜の追撃を受けるわけですが、その際に「石兵八陣」が登場します。

 

 

これは孔明が「奇門遁甲(八門遁甲)」を応用して作ったものであったりしますね。

 

 

ただこの話はあくまで「三国志演義」に描かれた逸話であり、

 

実際に追撃してくる呉軍から劉備を救った人物は、

白耳兵を率いていた陳到だとされています。

 

 

陳到に関しては記録が少ない人物の一人ではありますが、

 

劉備の豫洲時代からの古参の一人で、

「趙雲に次ぐ程の人物だった」と書かれてあります。

 

 

趙雲の武勇は多く知られていますが、

基本的に劉備防衛専属に近いポジションだったと思いますし、

 

夷陵の戦いには趙雲は参加しておりません。

 

 

そんな趙雲のポジションとして夷陵の戦いに参加したのが、

趙雲に次ぐとまで言われた陳到だったのではないかと思いますね。

 

 

これらの事を軽く頭に入れて「パリピ孔明」を再度見て頂ければ、

また違った楽しみ方ができるかもしれませんね☆彡