張任(ちょうじん)

張任寒門出身(益州蜀郡)の人物で、

大変に苦労した人物になります。

 

「寒門」とは貧しい家の出身という意味で、

それだけで出世することが難しい世の中でもありました。

 

 

当時は儒教が国の礎にあったこともあり、

名家であればあるほど出世がしやすい世の中だったのです。

 

そして賄賂も当たり前のように横行しており、

孝廉に推挙される場合も賄賂でどうにかできる世の中でもありました。

 

 

その点だけを見ても寒門出身者にとって、

出世する事が非常に困難な時代でもあったわけです。

 

 

そんな張任ですが、次第に認められたのでしょう。

劉璋によって益州の従事に抜擢されています。

張任の生涯(劉璋VS劉備)

劉璋と劉備の間で戦いが勃発すると、

劉備は白水関(涪水関)の楊懐・高沛を騙し討ちにすると、

 

劉備は白水関の軍勢を吸収し、連戦連勝で涪城へと迫ったのでした。

 

 

この時に劉備が吸収した楊懐・高沛の兵は、

おそらく劉焉・劉璋の軍勢の主力部隊であった東州兵だったのでしょう。

 

 

龐統は二人を「優れた名将」と言っていますし、

 

敵対していた張魯対策として、

配置されていたことを考えると間違いないと思いますね。

 

 

涪城の戦いでは、

張任が劉・冷苞・鄧賢と共に応戦したわけですが、

 

劉備に普通に敗北・・・

 

そこで今度は張任は劉璋の息子であった劉循と共に、

雒城で劉備を迎え撃ちます。

 

 

そして雒城の戦いでは、

劉備自身も大変な苦戦を強いられるわけですが、

 

張任はこの戦いの中で金雁橋に出撃した際に、

再び劉備軍に敗れたばかりか、捕まってしまうのでした。

 

 

この時に劉備は何度も張任に降るように説得するも、

最後まで劉備に降ることはありませんでした。

 

「老将は二君に仕える事はありえぬ!」

という言葉を残して・・・

 

 

そして劉備は張任が降らない事を残念に思いつつ、

張任を処刑し、金雁橋の傍に埋葬して張任を深く讃えたといいます。

「三国志演義」で龐統を討ち取った張任

「三国志演義」では、

張任は正史同様に劉璋配下の名将として登場しています。

 

そんな張任の活躍が見られるのは、

劉備が入蜀し、劉璋が迎えて宴会を開いた際の事です。

 

 

龐統は劉璋を殺害すべく魏延に剣舞を舞わせますが、

 

この際に劉璋殺害の為の剣舞だと気づいた張任が、

自らも剣舞を舞って魏延から劉璋を守った描写がされています。

 

 

次に劉備と劉璋が激突する事となると雒城に籠城し、

劉備軍を大きく苦しめています。

 

そしてその中で落鳳坡にて龐統を討ち取る大功をあげたりもしていますね。

 

 

龐統の死が知らされた諸葛亮は、

 

劉備を助けるべく益州へと出立し、

見事な作戦で金雁橋にて張任を捕まえています。

 

そして張翼が劉を殺害した事で、雒城は陥落したのでした。

 

 

正史ではあくまで龐統の死は落鳳坡ではなく、雒城の戦いの中での戦死であり、

また龐統の死も張任の死の翌年なのも大きく違う点ですね。

張任は老将だったのか!?

「正史」では、

張任が死に際に自らの事を老将だと言っています。

 

しかし「三国志演義」では、張任が若武者として描かれており、

しっくりこない点だったりしますよね。

 

 

ただ正史に記載が残されている通り、

 

寒門出身であった張任が益州の従事となるまでには、

大変な苦労があったのだと思います。

 

それなりに多くの月日もかかったことでしょう。

 

 

記録上は劉璋に採りたてられたような形になっていますが、

もしかすると劉焉時代から仕えていた可能性は十二分にあると思いますね。

 

いきなり劉璋に採りたてられたというのも少し不自然ですし、

寒門出身ならば尚更に地道な所が自然ですから・・・

 

 

そのあたりから考えても、劉備と戦った際の張任は既に六十歳前後、

もしくは更に上だった可能性もあるかと・・・

 

 

そしてこの時に注目すべきなのは、

 

張任と同じく忠義者であった厳顔が老将として、

「三国志演義」に記載されています。

 

ちなみに厳顔の正史での年齢など完全に不明な人物です。

 

 

もしかすると似たような二人の情報が乱れ感じで反映されたのが、

「三国志演義」だった可能性は十二分にあるかと思いますね。

 

老将であった張任が若武者とし、

年齢不詳であった厳顔が老将として・・・