樊建(はんけん)

樊建は荊州義陽郡の出身で、

劉禅に仕えた人物になります。

 

 

251年に樊建は呉への使者として派遣されるのですが、

その時の孫権はたまたま病に伏しており、諸葛恪が代わりに面会しています。

 

 

面会後に孫権は樊建が、

どのような人物であったかを諸葛恪に尋ねると、

 

かつて使者として訪れたことがある宗預と比較して

「才能では宗預に及びませんが、

性質は宗預以上でございました」と評価したのでした。

 

 

後に樊建は侍中に任じられ、

董厥に代わって尚書令を務めるまでに出世していきます。

宗預と孫権の逸話

孫権が蜀の使者として大変に高く評価した人物に、

伊籍・鄧芝・費禕・宗預の四人がいます。

 

ここでは諸葛恪が樊建と比較した宗預の逸話を紹介しておきたいと思います。

 

 

234年に諸葛亮が五丈原で亡くなると、

蜀で大きく心配されたのが、呉蜀の関係が崩れ去るのではないかということでした。

 

まさに劉備が亡くなった時と同じような状況が生まれたわけです。

 

 

実際に孫権はこの時に巴丘の兵士を増やしており、

孫権は「諸葛亮の死に乗じて魏が蜀へと攻め込むのではないか?」と思い、

 

もしもの際は蜀に援軍として送ることができるし、

 

最悪蜀が魏に滅ぼされることが避けられなかった際は、

蜀の領土を切り取ろうと考えていました。

 

 

 

孫権が巴丘の守備兵が増えたことに対して危機感を覚えた蜀は、

蜀はもしもの際に備えて、永安城(白帝城)の守備兵を増やして対応したのです。

 

そして同時に呉に対して宗預を使者として遣わします。

 

 

宗預と会った孫権は、

「最近白帝の守備兵を増やしていると聞いたけれども、

それはいかなる理由なのか?」と問うと、

 

「呉が巴丘の守備兵を増やせば、

蜀が白帝の守備兵を増やすのは当たり前のことです。

 

それを互いにわざわざ説明することに何の意味があるのでしょうか!?」と返したのでした。

 

正直な返答をした宗預を孫権は非常に気に入ったといいます。

 

 

それからしばらくして再度宗預が呉へ赴くと、

「宗預殿はいつも呉蜀の間の橋渡しをしてくれた。感謝しかない。

しかし宗預殿も私も歳を取って気力も衰えてきている。

 

今回が宗預殿と会える最後になるだろう・・・」と孫権は涙を流します。

 

 

そしてこれまでの感謝の意味も込めて、

大珠一斛(十斗)を与えて宗預との別れを惜しんだのでした。

孫権を感心させた蜀外交官(伊籍・鄧芝・費禕・宗預)の逸話集

蜀漢の滅亡

樊建は諸葛瞻や董厥と並んで国政に携わっていくものの、

 

宦官であった黄皓の暗躍に対応することができないばかりか、

諸葛瞻や董厥までもが黄皓に靡いてしまい、国内は乱れていくことになります。

 

 

ただ樊建自身は最後の最後まで黄皓に靡くことはありませんでした。

 

 

 

その後に鐘会や鄧艾が攻め込んでくると、

各地で蜀軍は敗れ、最終的に劉禅が降伏したことで蜀は滅亡してしまいます。

 

 

その後に劉禅に従って洛陽へと赴くと、

 

董厥と共に相国参軍に任じられ、

それから間もなくして二人は散騎常侍を兼任したといいます。

 

 

そして劉禅に従った者達で列侯に封じられた者達がいましたが、

その一人に樊建の名が残されています。

 

 

ちなみにその中に董厥の名がないことは、

「蜀志」後主伝(劉禅伝)で確認できたりします。

  • 樊建(尚書令)
  • 張紹(侍中)
  • 譙周(光禄大夫)
  • 郤正(秘書令)
  • 張通(殿中督)

 

 

この記載から判断するに、

蜀末期の国政を担った樊建と董厥の二人でしたが、

 

董厥は黄皓に靡いた事で蜀漢滅亡の一端を担った点なども含めて、

董厥は列侯に封じられなかったのかもしれませんね。

 

そうでなければ樊建同様に董厥も列候に封じられてもおかしくないと思いますから・・・

諸葛亮に評価されながらも蜀滅亡を一助した董厥

その後の樊建

司馬炎の政権下で給事中に任じられていた樊建は、

諸葛亮の治国について尋ねられた事がありました。

 

その質問に対して樊建は次のように答えます。

「諸葛亮殿がは自分の悪い点を聞いた際には必ず改め、

過ちを押し通そうとすることはありませんでした。

 

また賞罰の誠実は神明をも感動させるものでありました。」

 

 

樊建の言葉を聞いた司馬炎は、

「もし諸葛亮殿を補佐役にできていれば、

今日の苦労はなかったであろう。」

と諸葛亮に対して賛辞を贈っています。

 

 

またこの際に無実の罪で殺害された鄧艾の名誉を回復を嘆願し、

司馬炎が樊建の言葉に従ったことで鄧艾の罪は死して後に許されることとなったのです。

 

 

何故に樊建が蜀を滅ぼした相手である鄧艾の弁明をしたのかは不明ですが、

 

鄧艾が蜀攻略後にも略奪を働かず、蜀政権の者達を変えずに用いたりと、

益州の安定に努めていた事実を知っていたからこそ、

 

反逆者として殺害された鄧艾の名誉を回復させてあげたかったのかもしれませんね。

 

 

そして鄧艾の子供達こそ既に処刑されていたものの、

西域に流刑となっていた鄧艾の妻と孫の帰還が許され、

 

273年には孫の鄧朗が郎中に取り立てられたのは余談です。

 

 

ちなみにこの逸話以降の樊建がどうなったのかは分かっていません。