「魏公卿上尊号奏」
延康元年(220年)に曹操が亡くなり、
曹丕が跡を継ぐわけですが、
この際に臣下の者達が漢王朝(献帝)から禅譲を受けるように勧めた
「魏公卿上尊号奏(公卿上尊号奏)」というものがあります。
実際にこの事について書かれた石碑が、
実は河南省臨頴県城西(繁城鎮漢献帝廟内)に、
堂々としたたたずまいで現存していたりします。
石碑の大きさは大体ですが、次のような感じになっています。
- 高さ:約3.2m
- 横幅:約1m
- 厚さ:約32cm
ちなみにですが、「魏公卿上尊号奏」の石碑と同様に、
ここに一緒に残っているのが「受禅表」で、
禅譲を受けた曹丕の徳が称えられている内容になっています。
「魏公卿上尊号奏」「受禅表」をあわせて、
一般的に「三絶碑」と言われていますが、
「王朗の文」「梁鵠の書」「鍾繇の刻字」によるものだと言われています。
※三絶は「文・書・刻」が他に並ぶものがないという意味。
ちなみに右に「(魏)公卿上尊号奏」
左に「受禅表」の石碑があるわけですが、
その二つの石碑の間にちょこんと献帝の神階(神位)が置かれていたりします。
「魏公卿上尊号奏」に記載が残る四十六名
「魏公卿上尊号奏」には、
四十六名の臣下の者達の名前が残されています。
- 臣歆→華歆(相国・安楽郷侯)
- 臣詡→賈詡(太尉・都亭侯)
- 臣朗→王朗(御史大夫・安陵亭侯)
- 臣仁→曹仁(使持節・行都督督軍・車騎将軍・陳侯)
- 臣若→劉若(輔国将軍・清苑郷侯)
- 臣輔→鮮于輔(虎牙将軍・南昌亭侯)
- 臣忠→王忠(軽車将軍・都亭侯)
- 臣秋→楊秋(冠軍将軍・好畤郷侯)
- 臣柔→閻柔(度遼将軍・都亭侯)
- 臣洪→曹洪(衛将軍・国明亭侯)
- 臣真→曹真(使持節・行都督督軍・鎮西将軍・東郷侯)
- 臣休→曹休(使持節・行都督督軍・領楊州刺史・征東将軍・安陽郷侯)
- 臣尚→夏侯尚(使持節・行都督督軍・征南将軍・平陵亭侯)
- 臣霸→臧覇(使持節・行都督督軍・徐州刺史・鎮東将軍・武安郷侯)
- 臣郃→張郃(使持節・左将軍・中郷侯)
- 臣晃→徐晃(使持節・右将軍・建郷侯)
- 臣遼→張遼(使持節・前将軍・都郷侯)
- 臣霊→朱霊(使持節・後将軍・華郷侯)
- 臣泉→呼廚泉(匈奴南単于)
- 臣貞→邢貞(奉常(太常)/九卿)
- 臣洽→和洽(郎中令(光禄勲)/九卿)
- 臣昱→程昱(衛尉/九卿・安国亭侯)
- 臣夔→何夔(太僕/九卿)
- 臣繇→鍾繇(大理(廷尉)/九卿・東武亭侯)
- 臣霸→袁覇(大農(大司農)/九卿)
- 臣林→常林(少府/九卿)
- 臣照→董昭(督軍御史・将作大匠・千秋亭侯)
- 臣楙→夏侯楙(中領軍・中陽郷侯)
- 臣陟→〇陟(中護軍)
- 臣祖→〇祖(屯騎校尉・都亭侯/郭祖説あり)
- 臣凌→戴陵(長水校尉・関内侯/「魏志」文帝紀に長水校尉戴陵との記載あり)
- 臣福→任福(歩兵校尉・関内侯)
- 臣質→〇質(射声校尉・関内侯)
- 臣題→〇題(振威将軍・郷亭侯)
- 臣触→〇触(征虜将軍・都亭侯/焦触説濃厚)
- 臣当→〇当(振武将軍・尉猛亭侯)
- 臣生→〇生(忠義将軍・楽郷亭侯)
- 臣圃→閻圃(建節将軍・平楽亭侯)
- 臣神→〇神(安衆将軍・元就亭侯)
- 臣衢→趙衢(翼衛将軍・都亭侯)
- 臣慎→〇慎(討夷将軍・成遷亭侯)
- 臣巽→傅巽(懐遠将軍・関内侯)
- 臣俊→李俊(綏辺将軍・常楽亭侯)
- 臣昺→〇昺(安夷将軍・高梁亭侯)
- 臣豊→〇豊(奮武将軍・長安亭侯)
- 臣楮→許褚(武衛将軍・安昌亭侯)
四十六名の順位について
基本的に立場が上の者から順に記載されていますが、
曹操を発祥とする魏国(魏王)は、
あくまで 漢王朝の中に存在している藩国の立場でしたので、
魏の官位を頂いている者達より、
漢王朝から官位を頂いている者達の方が上位に置かれています。
この後にすぐに禅譲が行われ、曹丕が皇帝になるわけですけどね。
それをもとに見ていくと、
もともと曹仁は車騎将軍で立場的に上(ほぼ同格)なので話が別ですが、
他の五名が曹洪(衛将軍)より上位に置かれているのはその為です。
※驃騎将軍>車騎将軍>衛将軍
- 曹仁(車騎将軍)
- 劉若(輔国将軍)
- 鮮于輔(虎牙将軍)
- 王忠(軽車将軍)
- 楊秋(冠軍将軍)
- 閻柔(度遼将軍)
また名前と官職などの記載しか残っていない為に、
姓が分からずに名前だけがなんとか残るという歴史の闇に消えた人物も多いですね。
なんとなく可能性はあるけれども、
情報が不足しすぎてる人も数名いたりするのも現状です。
また完全に不明としている人物の中にもこの人物の事かなという人もいますが、
明らかに情報不足と矛盾が発生する人物は避けての記載になっています。