留賛(りゅうさん)
留賛は黄巾の乱が勃発した前年の183年に、
揚州会稽郡長山県で誕生しています。
留賛は優れだ人物ではありましたが、個人伝がなく、
留賛についての記載は「呉志」孫峻伝の注釈に書かれてある程度となています。
留賛は会稽郡の役人になり、
黄巾賊の残党軍の首領であった呉桓を討ち取ったりもしています。
ただこの時の戦いで、留賛は足を負傷したことで足が動かなくなってしまうという不運に・・・
それからの留賛は兵法書や歴史書を好んで読んでいたようですが、
それにより気持ちが高ぶったといいます。
しかし足が曲がらない現状に悲観し、葛藤の中で己の足の筋を切断し、
曲がったままの足を真っ直ぐに伸ばす事を決断したのでした。
これに大きく反対したのが留賛の家族でしたが、決意が揺らぐことはなく・・・
そして実際に足の筋を切ったわけですが、
留賛はあまりの激痛から気を失ってしまったといいます。
ただ留賛の決意を聞いていた家族の者達は、
留賛の足が良くなる事だけを祈って、足を伸ばしてあげていたようです。
そのお陰もあって傷が癒えた後は、びっこ足であったものの、
なんとか歩くことができるようになったのでした。
留賛のこの逸話を耳にした凌統は、
留賛と会って話すも大変に気に入り、孫権に推薦した事で仕官するに到ります。
留賛は度重なる戦功をあげた事で屯騎校尉へと出世します。
建興元年(252年)の東興の戦い(東関の役)では、
諸葛恪・丁奉・呂拠・朱異らと共に胡遵・諸葛誕らに大勝したでした。
これによって留賛は左将軍に任じられています。
戦いの前の儀式(髪燦々&雄叫び&歌唱)
「留賛は兵を率いた際の戦いの前には、
髪を振り乱して大きな叫び声をあげ、
そして留賛が戦場に出るたびに、
負けるような事はなく、その度に勝利を掴んだのでした。
そして五鳳二年(255年)、
寿春にて毌丘倹が文欽・文鴦親子と共に反乱を起こすと、
魏の討伐軍を迎撃するため寿春を留守とします。
これをチャンスと見た孫峻は、
寿春を奪うべく、留賛と呂拠を率いて自ら攻め込んだのでした。
ちなみに留賛は左将軍ですが、呂拠は右将軍であり、
孫峻は左右将軍を率いて攻め込んだ形だったわけですね。
また孫権は252年に亡くなっており、孫亮の時代へと時は進んでいました。
しかしこの時に孫亮に代わって、
大きな権力を手中に収めていたのが孫峻という人物で、
孫策・孫権の父親である孫堅の弟にあたる孫静の一族にあたる人物になります。
毌丘倹らの反乱軍討伐の為に、魏からは司馬師自ら出向いており、
この戦いがきっかけで亡くなってしまうのは余談です。
文欽の息子である文鴦の突撃にびっくりして、左目が飛び出してしまうという・・・
留賛の最期
司馬師の左目が飛び出してしまうことはありましたが、
あっさりと寿春を攻略されてしまいます。
それにより孫峻は仕方なく撤退命令を出したのでした。
この際に留賛は病気にかかり、撤退すらままならない状態で、
いつもの留賛の儀式であった髪を振り乱しての踊りや歌唱などができなかったのでした。
ましてや陣立てすらまとものできなかったといいます。
ここにいたって留賛は自分の死期を悟り、
他の者に軍を託して自らは討死覚悟で残ることに・・・
そして諸葛誕の追撃の餌食となる形で、
菰陂という地において孫楞・蔣脩と共に討死してしまいます。
留賛は既に七十歳を超えていましたが、
留賛の死を聞いた多くの者達が悲しんだと言われています。
「主南門鑰司馬」
そんな留賛ですが、道教の茅山派の開祖である陶弘景によって、
冥界の官吏(役人)へと祭り上げられることになります。
どういうことかといいますと、六朝時代の陶弘景の著作で、
道教の神統譜でもある「真霊位業図」というものがあるのですが、
ここには歴史上の人物が数多く、冥界の官吏として登場しています。
「真霊位業図」は七つの位に分かれており、
一番下にあたるのが第七位なのですが、ここには生前に功績があった人物が多く登場しています。
「真霊位業図」には始皇帝(嬴政)であったり、
劉邦(漢の高祖)等も名を連ねており、
三国時代の人物も有名な人物から意外な人物まで数多く登場しています。
魏ゆかりの人物として、
曹操・荀彧・郭嘉・司馬懿・曹洪・曹仁・何晏・龐徳・徐庶であったり、
劉備・徐庶・劉封・孫堅・孫策あたりも登場しています。
他にも曹休を見事に計略によって敗北に導いた周魴であったり、
孫策に敗れた厳白虎(厳虎)という意外な人物まで含まれていたりしますね。
その中の一人に「主南門鑰司馬」として、
留賛も登場しているという感じです。