曹操に仕官した毛玠

毛玠もうかい兗州陳留郡平丘県の出身になります。

 

若かりし頃の毛玠は県の役人を務めていましたが、

「清潔公正」な人物として名を高めます。

 

ただ世の中が大いに乱れると、

戦乱を避けて荊州へ向かう事を考えたといいます。

 

しかし「劉表の荊州統治が適当である」と聞いた毛玠は、

荊州に向かうことはとりやめています。

 

そんなタイミングの中で、曹操から治中従事として招かれ、

それがきっかけとなって曹操に仕えることになります。

 

 

献帝が李傕や郭汜から逃れる形で洛陽へと向かった際には、

献帝を迎えるように進言したといいます。

 

他にも荀彧や程昱も、

献帝を迎えるように進言していた人物としては有名ですね。

 

 

また毛玠は献帝を迎える際に、

「その権威を大いに利用すべきだ」と説いています。

 

具体的例として、献帝を利用して袁紹や劉表らと対抗すべきだという事であり、

これらの毛玠の意見は曹操によって採用されることに・・・

崔琰と共に人事担当へ

曹操が丞相へ就任するとと、毛玠は東曹の掾に命じられ、

崔琰と共に人事を任されることとなります。

 

毛玠が人事の際に最も重要視したのは「清廉さ」であり、

実際に毛玠が登用した人物は、きまって清廉さを備えた人物でした。

 

この毛玠の人事は周りにも影響を与え、

「既に高官にある者でさえ自らの行動に慎重になった」といいます。

 

そしてこれらの点については、

曹操も毛玠を褒めたという記録もきちんと残っていますね。

 

 

ただ人材登用に際して、

忖度をいれる事が全くなかったことから敵を作ることもあったようです。

 

例えば曹丕が身内の採用を願い出た際も例外ではなく、

「曹丕の申し出を断った」という逸話さえ残っています。

 

 

本来であれば毛玠の姿勢が正しいのでしょうが、

融通を全く利かせなかった事で、自然と敵が多くなっていったのでしょうね。

 

 

反感を多く持った者達は、

「毛玠が任じられていた東曹を廃止して、

西曹に一本化すべきだ」という意見も多く出ているという現状でした。

 

 

ただそんな毛玠の姿勢を誰よりもきちんと評価したのは曹操でした。

 

これに対して曹操が取った措置は、

「東曹を残し、西曹を廃止する」というものだったのです。

 

この逸話はまさに曹操らしさが全力に出ている話だと思いますね。

 

 

その後に毛玠は右軍師に任じられ、曹操が魏公になると尚書僕射に任じらますが、

それらに任じられても人事を担当していたといいます。

 

 

また後継者争いを避ける為に袁紹の遺児の話を例に出して、

曹植を寵愛する曹操を諌めたのは余談です。

不遇な末路

曹操から高い信頼を受けていた毛玠でしたが、

 

丁儀の讒言によって崔琰が自害に追い込まれる事件が起こると、

状況が一変してしまいます。

 

 

これがどういうことかと言うと、

 

崔琰を自害に追い込んだ曹操の対応に対して、毛玠は曹操に不満を抱き、

二人の間に大きな溝が生まれてしまったわけです。

 

 

またそういう中で丁儀の牙が毛玠にも向いてしまい、

その結果として曹操の怒りを買った毛玠は投獄されてしまいます。

 

ただ和洽や桓階が毛玠を擁護してくれたことにより、

死罪は免れることに・・・

 

ただ免官させられてしまい、その後は二度と復職する事はなかったといいます。

そしてそんな中で生涯に幕を下ろすことになったわけでして・・・

 

 

毛玠は曹操に仕えてから免官させられてしまうまで清潔公正な態度を貫いたものの、

讒言によって不遇の最後を迎えることになったのは残念でしかありません。

 

 

ただ毛玠を追い込んでしまったのを悔いたのかは分かりませんが、

 

曹操は毛玠の為に棺・埋葬品・銭・絹を賜与し、

息子の毛機を郎中として取り立てているのは余談ではあったりします。