袁胤(えんいん)-袁術の従弟-
袁胤は袁術の従弟にあたる人物であり、
袁術同様に豫州汝南郡汝陽県の出身で、袁術に付き従った人物になります。
興平元年(194年)に、
孫策が劉繇・王朗らを破って江東制圧に成功すると、
半ば独立した様な立ち位置になります。
これを快く思わなかったのが袁術であり、
周尚の後任として丹陽太守に袁胤を任じたのでした。
ちなみに周尚は周瑜の従父であるのは軽い余談です。
しかし袁胤が丹陽太守に任じられたのも束の間、
孫策は徐琨に袁胤討伐を命じ、袁胤は丹陽郡から追い出してしまいます。
これに大きな怒りを覚えたのが袁術であり、
涇県を中心に丹陽郡で勢力を拡大させていた祖郎をけしかけたりしたのですが、
孫策に撃退されて失敗に終わってしまいます。
ちなみに祖郎は孫策に捕縛され、最終的に孫策に仕えた人物でもありますね。
袁術の死
袁術が皇帝を僭称すると、袁術の命運は尽きていく事になり、
周りの群雄から敵対視されてしまった事で勢力を一気に縮小させていきます。
略奪に次ぐ略奪で勢力維持に努めてきた袁術でもありましたが、
つまり目指したのは袁紹との合流だったわけですね。
そして袁紹は青州にいる自分の息子である袁譚に袁術を迎えさせようと準備までしていましたが、
それが実現する事はなく、袁術は亡くなってしまったのでした。
ここで袁術の棺に守ったのは、
袁胤と黄猗(袁術の娘婿)の二人になります。
しかし自分達だけではどうにもできないと判断した二人は、
一族の者達を引き連れ、かつて袁術の配下でもあり劉勲を頼って落ち延びていったのでした。
この時に美人姉妹として知られる大喬や小喬も、
袁胤らと共に劉勲の下へと逃れてきていたのは余談です。
その後に劉勲が孫策に誘き出される形で滅亡してしまうと、
袁胤ら残された袁術の一族は、孫策によって保護されて呉郡へと移住しています。
その際に「断金の契り」で有名な孫策と周瑜が、
大喬・小喬の美人姉妹を娶ったことで真の義兄弟となったのは有名は話ですね。
孫策の庇護下に落ち着いた袁術の一族
袁術の血筋は、孫家の中で引き継がれていくこととなります。
袁術の愛娘であった袁夫人なんかは、孫権の側室となっていますが、
二人の間に子供が生まれることはありませんでしたが・・・
ちなみに呉郡に移住してからの袁胤が、
その後にどういった生涯を歩んだのかは分かっていません。
最後に「三国志演義」に描かれる袁胤ですが、
袁術没後に袁術の棺を守っていたものの、
曹操配下の徐璆によって殺害されただけでなく、玉璽を奪われる役どころになっています。
ちなみにその玉璽は曹操の元へと届けられていますね。