吾彦が活躍するのは呉末期の時代ですが、
孫晧が晋に降伏するまで城を守り通した事でも知られる人物です。
また呉滅亡後は晋でも活躍を続け、多くの優れた逸話が残っていたりします。
そんな吾彦ですが辺境の太守に任じられる事も多く、
結果として中華全土を股に掛けた人生を送っていたりします。
今回はそんな吾彦の転勤場所にスポットをあてて見ていきたいと思います。
吾彦が任じられた各地の役職
まず吾彦が生まれたのは揚州呉郡呉県であり、
そこから吾彦の一生をかけた転勤の生涯が始まる事となりますね。
①揚州呉郡呉県
次に任じられたのが建平太守なので、荊州建平郡になるのですが、
この当時の荊州は晋と領地が混ざり合っており、建平郡の中心都市が不明瞭なのが現状です。
本来であれば巫県とかになるのですが、
吾彦が赴任した際は、羅憲によって巫城は陥落されており、
おそらく晋の領土だったと思いますので・・・
そう考えた場合は、秭帰県・信陵県・沙渠県のどれかになると思います。
あくまで推測になりますが、晋の水軍航路妨害の為に鎖を繋げたりしている点からも、
秭帰県・信陵県のどちらかの可能性が高いかなと思っています。
ただ不明瞭な部分が多いので県までは指定せず、荊州建平郡とします。
②荊州建平郡(建平太守)
そして吾彦は建平太守のまま呉が滅亡し、その後は晋に仕えるわけですが、
しばらくは分かりやすい転勤状態なので、簡潔に場所&役職を書いていきます。
③涼州金城郡楡中県(金城太守)
④涼州敦煌郡敦煌県(敦煌太守)
⑤并州雁門郡広武県(雁門太守)
⑥交州交趾郡龍編県(南中都督・交州刺史)
見て分かる通りではありますが、各地の辺境を渡り歩いてる感じになってます。
そして最後は自ら望んで職務交代を願い、それが聞き届けられています。
もしかしたら体調等の不良があったのかもしれませんね。
そして最後の赴任先になりますが、
吾彦は中央に呼び戻されて大長秋に任じられています。
大長秋は宦官のトップの役職であり、
吾彦が宦官になったというのは少し考えにくいですが・・・
もしかしたら大長秋になる為の条件が少し変化していたのかもしれませんが、
そのあたりの事情が現時点では分からないので、そのままの意味で解釈はしたいと思います。
ですので最後の赴任地は洛陽県になりますね。
そして吾彦はその役職のまま天寿を全うしています。
⑦司隸河南尹洛陽県