龐徳公(襄陽の有名な名士)

龐徳公荊州南郡襄陽県で知られた名士であり、

人物鑑定としても名を知られた人物です。

 

龐徳公の甥には、かの有名な龐統がいます。

名前こそ伝わっていませんが、龐統の兄の息子が龐統ということだったのでしょうね。

 

ちなみに龐徳公は「姓」を龐、

「名(諱)」を徳公で、字は「子魚」と一般的には言われています。

 

 

ただある方に「龐徳公は尊称ではないのか?」と言われた事があるのですが、

私はそれを聞いて確かに可能性として十二分にありそうだなと思いました。

 

その場合は「姓」が龐で、「名(諱)」が徳であり、

尊敬の気持ちを込めて「龐徳公」と呼んだ可能性ですね。

 

実際「〇〇公」と尊称で呼ばれる事はあったりしますので、

つまり尊称のみが後世に残ったパターンではないかということです。

 

 

ちなみに馬超配下であった龐徳と勘違いされる方がいらっしゃいますが、

全くの別人ですので、軽く補足を入れておきます。

「臥龍」「鳳雛」「水鏡」の生みの親

横山光輝三国志(20巻123P)より画像引用

 

「臥龍鳳雛」は、機会を得ずに世に隠れている優れた者の例えで、

今でも使われたりする言葉でもありますが、

 

もともとは三国志時代に諸葛亮と龐統に対して例えられた言葉になります。

 

司馬徽(水鏡先生)が諸葛亮を隠れた龍の意味で「臥龍(伏龍)」

龐統を鳳凰に成長する前の雛鳥の意味で「鳳雛」と名付けられた二人を紹介した逸話は有名ですよね。

 

 

これは東晋の習鑿歯が編纂した、

「襄陽記(荊州襄陽郡を中心とした地方志)」に記載された話ですが、

三国志演義にも採用されている逸話なので、知ってる方も多いでしょう。

 

ちなみに「蜀志」諸葛亮伝の注釈にも、この逸話は加えられています。

 

 

なので司馬徽が伏龍鳳雛の名付け親と勘違いされている方も多いですが、

そもそもの名付け親は龐徳公なのは案外知られていません。

 

ちなみに「襄陽記」では、司馬徽ではなく「司馬徳操」で登場していますが、

諸葛亮で例えれば、諸葛孔明と言ってるのと同じです。

 

つまり「姓+字」書きですね。

 

 

そしてこの司馬徽が「三国志演義」では、

「水鏡」「水鏡先生」として登場している事で良く知られた尊称だと思いますが、

この名付け親も実は龐徳公だったりします。

 

このあたりの事も「蜀志」龐統伝に注釈「襄陽記」として記載されいます。

司馬徽 -諸葛亮・龐統・徐庶など多くの弟子を持つ水鏡先生-

「龐徳公」は実際の姓名なのか、それとも尊称なのか!?

実際「字」とされている「子魚」ですが、

そもそもはっきりとした資料に残ってるわけではなく、

 

「民間伝承的に伝わっている」というかなりアバウトな情報でして・・・

 

また「蜀志」龐統伝の注釈「襄陽記」には、

高名であったことから「龐徳公」であったり、「龐公」「徳公」と記載されていたりもします

 

 

実際に「襄陽記」では、司馬徽・諸葛亮・龐統らが

司馬徳操や諸葛孔明や龐士元というように「姓+字」で登場している事からも、

 

「龐」が姓+「徳公」が字と考えのが一番まともな気がします。

 

この理論の場合は「子魚」という字は、論外的な感じで抹消されるわけですけどね。

 

 

もちろん龐徳公の息子として登場している龐山民も同様でして・・・

 

なのでもう少し分かりやすい例を出すと、関雲長・張益徳・趙子龍のような感じで、

「姓と字」だけが後世に伝わったという可能性です。。

 

 

ちなみに西晋の時代に生きた皇甫謐こうほひつの著した「高士伝」にも、

似たように「龐公」と記載が残っていたりします。

 

ちなみに上の画像も『「龐徳公」が尊称ではないか?』と仰られた方からの頂いた画像なのですが、

確かに画像で確認しても「龐公」ときちんと書かれてありました。

 

 

これらをまとめると、

「字が子魚である」というのはそもそも論外の話であり、

 

あくまで私見ではありますが、「姓」を龐、「名」は不明、

「字」が徳公、尊称が「龐公」だったのではないかと思いますね。

諸葛亮と龐統を親族にした人物

上でも軽く名前が登場しましたが、龐徳公には龐山民という息子がおり、

龐統の従兄弟(多分従弟)にあたる人物です。

 

この龐山民は諸葛亮の姉(次女)を娶っている事が「襄陽記」に記載されています。

 

諸葛亮には二人の姉がおり、一番上の姉は蒯祺かいきという人物に嫁いでおり、

そして次姉が龐山民に嫁いだという形ですね。

 

 

蒯祺に軽くだけ触れておきますと、

蒯祺は蒯越や蒯良の一族だとされている人物であり、

後に蒯祺は房陵太守に任じられているのですが、孟達が房陵を攻めた際に殺害されています。

 

ちなみに房陵を攻めるように指示を出しているのは、もちろんですが劉備です。

 

 

龐山民と諸葛亮の次姉が結ばれた事で、諸葛亮と龐統が親族同士になったわけです。

 

これは蒯祺にも言える事ですが、次第に諸葛亮は、

荊州で名が知られた一族との繋がりが出てきたと言えるでしょうね。

 

もともと諸葛亮の出身は徐州であり、

流れ者でしかなく、荊州の人脈は薄かったはずですから・・・

 

「娶諸葛孔明小姊、為魏黃門吏部郎、早卒。」

とにもかくにも龐徳公を通して、

諸葛亮と龐統が親族になった事だけは間違いないでしょう。

 

 

そして後に諸葛亮と龐統は劉備に仕えていますが、

 

「龐山民は魏に仕え、

黃門吏部郎(もしくは黄門郎&吏部郎)に任じられた」

記載されていますね。

 

ただ悲しいかな、「その後に亡くなった」と締めくくられています。

 

 

ちなみに余談ですが「三国志演義」では、

龐山民と諸葛亮の姉ではなく、龐統の兄弟が諸葛亮の妹を妻としている形がとられています。