葛玄(葛仙公)-左慈の弟子-

「呉志」第十八巻には、

「呉範伝」「劉惇伝」「 趙達伝」があるのですが、

 

三人は凄腕の占い師で、「江南八絶」に数えられた三名でもあります。

 

ここには裴松之が注釈を色々と加えているのですが、

その中に葛仙公かつせんこうという人物が紹介されています。

 

 

実際に三国時代に生きた人物でもあるのですが、

葛仙公の「仙公」は尊号であ葛玄(字:孝先)が実際の名前になりますね。

 

ここでは葛仙公ではなく、葛玄で呼び名を統一しますが、

もともと徐州琅邪郡の出身で、後に丹陽郡句容県に移り住んでいたといいます。

 

 

葛玄は幼き頃より学問に励み、

五経(「詩経」「書経」「礼記」「易経」「春秋」)を広く学び、

 

老荘思想に強い影響を受けたといいます。

 

 

ちなみにですが本来は、

「五経」ではなく「六経」と呼ばれていました。

 

五経(「詩経」「書経」「礼記」「易経」「春秋」)に、

本来は「楽経」も入っていたわけですが、

 

「楽経」が失われてしまったことで、

残りを合わせて「五経」と呼ばれるようになったわけです。

 

 

葛玄は左慈に弟子入りした事でも知られる人物でもあり、

「捜神記」「抱朴子」「神仙伝」などに仙人的立ち位置で記録が残されていたりしますね。

 

 

 

また陶弘景の「真霊位業図」には、多くの三国時代の人物も登場しているわけですが、

その中で第三階位の属する神々の中の一人として登場しています。

 

 

ちなみに曹操・劉備・孫堅あたりも登場していますが、

これらの人物でさえ、第七階位の最下層の中で登場していますので、

 

葛玄がどれだけ高い所に位置付けられたか分かる一つの話でもあります。

 

 

 

ちなみに「呉範伝」「劉惇伝」「 趙達伝」に注釈を加えられている書物は、

葛仙公の一族である葛洪が著した「抱朴子」に書かれている内容です。

 

 

「抱朴子」は葛洪が317年に完成させたものですが、

 

内篇と外篇から構成されており、散逸した内容も多くあると言われていますが、

内篇には神仙的な逸話を集大成したものとなっていますね。

呉を支えた江南八絶(趙達・劉惇・呉範・厳武・皇象・曹不興・宋寿・鄭嫗)

「抱朴子」に書かれてある葛仙公の逸話

蒼天航路(34巻195P)より画像引用

 

葛玄は酒を飲んで酔っ払うと、

いつも他人の家の門前にある池の中で寝てしまったようです。

 

そして日が暮れると、葛玄はやっと水の中から出てきたといいます。

 

 

 

またある時に葛玄は孫権に休暇を願い出て、洌洲へと出向いたのですが、

 

帰途の際に暴風に遭遇してしまい、

葛玄が乗っていた船が沈没してしまいます。

 

 

これを聞いた孫権は大変に悲しみ、多くを動員して、船が沈んだ辺りを懸命に探させ、

孫権は高い所からその様子を見ていたのでした。

 

しかし葛玄を見つけられずに長い時間が経っていた中で、

葛玄が水の上を歩いてきていたわけです。

 

 

そして葛玄は孫権に対して、

伍子胥ごししょに招かれたので、

川底で先程まで共に酒を飲んでおりました」

と謝罪したという話が書かれてあります。

 

伍子胥はかつて春秋戦国時代の呉王である闔閭こうりょに仕え、

孫武と共に呉を強国にのし上げた人物ですが、最期は自決させられるという不遇の最期を・・・

 

またそれだけではなく、遺体は馬の革袋に入れられて川に流されており、

葛玄のこの逸話は、そういう経緯を含んだ上で作られた逸話だったのでしょうね。

 

 

この逸話はさりげなく、蒼天航路でも差し込まれていましたね。

何故にこの展開の中で葛玄の逸話を出したのか、不思議ではあったのを今でも覚えてます。

 

 

 

そして「抱朴子」には次のような逸話も残されています。

 

「私は8月13日に死んでしまうだろう」

と葛玄が自らの死期を的確に明言したことがありました。

 

そして実際に8月13日になると、葛玄が言った通りに亡くなってしまいます。

ただ亡くなっても顔色は生前のまま生気に溢れていたといいます。

 

それから葛玄の葬儀を弟子たちが取り仕切っていると、

三日後に突風が吹き出し、雷が鳴り響き、灯りが消えたのでした。

 

 

そして風が止み、灯りがまた灯り出すと、そこに葛玄の姿は無くなっていました。

 

ただ葛玄が着ていた服は、帯すら解かれずにそのままの状態で、

肉体だけが綺麗に無くなっていたわけです。

 

もちろん葛玄の遺体がどこにいったのかは、その後も分からなないままで・・・

 

 

翌朝になり、弟子が隣人の元へ赴いて、葛玄の事を尋ねたわけですが、

 

「そもそも昨晩は風も吹いておらず、

雷も鳴っていなかった」と隣人は答えたといいます。

「捜神記」に記載が残る孫権との逸話

葛玄は字を孝先といい、左慈の弟子となって、

「九丹液仙経」を授けられたといいます。

 

そんな葛玄がある時に客人と食事をしていた際に、変化の術についての話になり、

客人から「食後にでも貴方(葛玄)の変化の術を見せて欲しい」とお願いされたことがありました。

 

そこで葛玄は、「今すぐに見せてあげよう」と語ると、

口に含んだ米粒を全て吐き出したのです。

 

そうするとその米粒が全て数百の大蜂に変化し、

客人の前に飛んで行ったのですが、大蜂が客人を刺すことはありませんでした。

 

 

しばらくして葛玄が大きな口を開けると、

全ての大蜂は葛玄の口の中へと戻り、ただの米粒へと戻っていったといいます。

 

そして葛玄は何もなかったかのように、その米粒を嚙んで食事を続けたのでした。

 

 

この話に続くように他の逸話も書かれてあったりします。

 

葛玄は蛙や昆虫や小鳥を指差して躍らせたのですが、

それの様子は音楽に合わせて人間が踊っているようなものであったそうです。

 

冬に瓜やなつめを用意したり、夏に氷を出した事もあったといいます。

 

 

他にも葛玄が命じて、数十の銅銭を井戸に投げ込ませました。

 

そして自ら盆を持って井戸の上から呼び掛けると、

次から次へと銅銭が葛玄の盆の上へと戻ってきたという逸話も書かれてあったり、

 

客人が酒を飲み干した際に、

自動的に客人の前に新たに酒が注がれた一杯が移動してくることもあったそうです。

 

 

そして最後に記載されているのは葛玄と孫権についての逸話になります。

 

葛玄が孫権と共に楼上に座り、下々の様子をうかがっていたことがありました。

 

その中で泥人形を作っている様子が見えた孫権は、

「雨乞いの為にあのようなものを作っておるのであろうなぁ」と葛玄に問うと、

 

「雨を降らす事など容易い事です」

と一言述べ、呪符を神廟の中に張り付けると、しばらくして空が暗くなり、

地上に大雨が降り注ぐと、地上に降り注いだ水は四方へと流れ出たのでした。

 

 

その様子を見た孫権が、

「この流れている水の中に魚はおるだろうか?」

と葛玄に問いかけると、

 

先程とおなじように呪符を準備して水の中へ投げ込みます。

 

それから少しすると、数百もの魚が現れたので、その魚を捕らえさせたといいます。

 

 

これらが「捜神記」に記載されている葛玄の逸話になります。

 

他にも沢山の三国志の登場人物の逸話が書かれてあったりするので、

捜神記を一度手に取って読んでみるのもよいかもしれませんよ。