桓範(元則)-名家出身-

桓範豫州沛国の名家の出身であり、

妻は仲長氏という女性で、息子がいたことは分かっているのですが、

何故か息子の名は現在に伝わっていません。

 

おそらく何の功績もなく、父親ともどもに最終的に処刑されてしまう事から、

名前が現在に伝わらなかった可能性が高いと思われます。

 

 

そんな桓範ですが、陳寿の三国志に個人伝はなく、

「魏志」諸夏侯曹伝の中に記載として残されている感じですね。

 

もう少し正確に言うと、

「魏志」諸夏侯曹伝(曹真伝)の中の「曹爽伝」に記載が残されている感じになります。

 

 

桓範の息子の名前(諱)については不明だといいましたが、

名家出身でありながら、桓範の両親の名前も現在に伝わっていません。

 

そんな桓範ですが建安年間(196~220年)の末頃に、

「曹操の丞相府に招かれた」とあります。

 

正確な時期こそ不明ではありますが、曹操に仕官したという事ですね。

 

 

ちなみに建安十七年(212年)に曹操は魏公になっている事を考えると、

 

あくまで推測ではありますが、

曹操が魏公に任じられる前あたりに仕官したのではないかなと想像しています。

 

 

何故なら曹操が魏公になってからは、基本的に漢王朝(献帝)の都であった許昌とは別に、

曹操の中心的滞在都市となったのは鄴に移ったからですね。

 

丞相府は許昌にありましたから、あくまでそういう点からの推測になります。

曹操の死&曹丕の「魏」建国

建安二十五年(220)に曹操が亡くなると、曹丕が跡を継ぐわけですが、

そこから間もなく漢王朝から禅譲される形で「魏」を建国しています。

 

そして桓範は羽林左監に任じられ、

王象と共に「皇覧」の編集を任されたといいます。

 

 

曹丕時代の逸話はこれぐらいしか残っていませんが、

桓範が大きく活躍していくのは曹丕亡き後の曹叡の時代からになります。

 

 

黄初七年(226年)五月に曹丕が亡くなって曹叡が跡を継ぐと、

中領軍・尚書となり、孫桓の才能を高く評価されたというふうに言われています。

 

その後の桓範はというと征虜将軍・東中郎将、

そして使持節・都督青徐諸軍事といったふうに順調に出世していきます。

 

ただこの時に徐州刺史であった鄭岐ていきと家を奪い合い、

斬りあいまでに発展しようとしたのですが、

 

鄭岐が上奏したことによって、桓範に非があると判断されて免職させられてしまったのでした。

 

 

しかし桓範の才能を惜しまれたこともあり、後に兗州刺史として復職していますね。

妻へのDV(流産&死去)

兗州刺史として召し抱えられた桓範ですが、気持ちの整理がついていないままの状態でした。

その際に「桓範を冀州牧として転任する」といったような噂が桓範の耳に入ります。

 

この噂を聞いた桓範は昇進であることは間違いないはずですが、

冀州牧として転任する事は強く嫌がったのです。

 

 

その理由は、かつて自分より立場の低かった呂昭が鎮北将軍に任じられており、

冀州牧として赴任した際には、呂昭の管轄下にあたるからであり、

 

妻である仲長氏に対してもこの怒りをぶつけ、

「呂子展(呂昭)なんぞに頭を下げられるか!!」と愚痴をこぼしています。

 

 

これに対して仲長氏は、鄭岐と揉めて免職させられたことをいじると、

桓範は大変に腹を立て、仲長氏の腹を刀環(刀の柄)でついてしまいます。

 

仲長氏は桓範の子を身ごもっていましたが、これがきっかけとなり流産してしまい、

そればかりか仲長氏もこれがきっかけとなって亡くなってしまったのでした。

 

また桓範はというと、噂通りに冀州牧の話がきたわけですが、

病気と称して冀州へ赴くことはなかったようです。

高平陵の変&桓範の最期

曹叡が崩御したわけですが、曹叡の息子達は全て先に亡くなっていた事から、

一族の者であった曹芳を養子として育てており、そんな曹芳が跡を継ぐこととなります。

 

ただ皇帝になった人物であるにも関わらず、

父親が誰なのかが分からない謎多き出生の人物でもあるんですよね。

 

 

そして桓範は大司農(九卿)に任じられたわけですが、

 

曹真の息子であった曹爽は、

同じ地元の先輩にあたる桓範に対して強く敬意を払っていたといいます。

 

ただそんな曹爽に対しても、桓範が心を許す事もなかったそうですが・・・

 

 

しかし司馬懿がクーデター(高平陵の変)を起こした際に、

以前から桓範の才能を高く評価していた司馬懿が桓範を中領軍を任せようとして声をかけ、

 

桓範もまた司馬懿の招きに応じようとします。

 

 

ただこの時に桓範の考えに強く反対したのが息子で、

最終的に桓範は息子の意見を採用し、曹芳のもとへとかけつけていったのでした。

 

そして桓範は曹爽に出会って真っ先に助言したことは、

「帝(曹芳)を連れて、旧都である許昌へ移動して、

ここで四方から兵を収集して抵抗すべきです」というものでした。

 

 

しかし曹爽が桓範の助言を取り上げることはなく、

司馬懿にひざまづくことを選択し、

 

曹爽らは結局許される事はなく、最終的に処刑されてしまったのでした。

 

 

裴松之が注釈を加えた「魏氏春秋」には、

次のような逸話が書かれてあります。

 

 

曹爽は例え実権を失ったとしても、

不自由なく暮らしていける事を口にして司馬懿に降った際に、

 

「父親(曹真)は優れた人物であったが、

お前ら兄弟(曹爽・曹羲)は子牛にでも生まれたのか!?

 

お前らのせいで、

一族が途絶えようとは思いもしなかった」

と桓範が語った逸話が残されています。

 

 

最終的に桓範も罪に問われ、

曹爽らと共に三族皆殺しにされることとなったのでした。

桓範や曹爽との因縁があった蒋済

三国志/完結編/2巻(寺島優・李志清)127Pより画像引用

 

 

桓範は若かりし頃から「漢書」を研究していた人物としても知られており、

『「世要論」なる著書を完成させた』という逸話が残っています。

 

ある時に桓範が蒋済を含め数人と同席していた際に、

桓範は蒋済に対して「世要論」を見せて評価を求めた事がありましたが、

 

蒋済は評価するどころか、「世要論」を見る事すらなかったといいます。

 

 

何故に蒋済が「世要論」を見る事すら拒んだのかは不明ですが、

 

ただ蒋済は時と場所を選び、

他の者達と同席中であったことも理由だったのかもしれません。

 

ただこの行為に対して、激しい怒りを覚えたのが桓範でもあったわけです。

 

 

そんな蒋済が助命を条件に、曹爽を降伏させることを成功させたのは因果だったりします。

 

 

 

ただ司馬懿に協力をしたのが蒋済なら、

司馬懿が曹爽を処刑しようとした際に反対したのも蒋済でした。

 

反対した理由としては、

大きな功績のあった曹真を祀る者を絶やす事に反対したからになります。

 

 

結局その言葉は司馬懿に聞き入れられず、曹爽らは処刑されてしまいます。

 

 

その事からも裴松之が注釈に加えた「世語」には、

 

蒋済自ら助命を条件に曹爽を降伏させた身として、

結果的に曹爽に嘘をついた事に対して非常に申し訳ない気持ちになったといいます。

 

そしてそれがきっかけに病気にかかり、

「蒋済もまた曹爽らが処刑された年に亡くなった」

書かれてありますね。