義勇軍結成(劉備・関羽・張飛の初陣)
横山光輝三国志(2巻10P・11P)より画像引用
義兄弟の契りを結んだ劉備・関羽・張飛。
三人は義勇軍募集をかけていた幽州太守の劉焉のもとへと赴きます。
実際は太守は幽州の中にある郡の太守になるので、
正確には幽州刺史もしくは幽州牧の方が正確かなと個人的には思います。
例えば幽州には次のような郡があったりしたわけです。
代郡・上谷郡・涿郡・広陽郡・漁陽郡・右北平郡・
遼西郡・遼東郡・玄菟郡・楽浪郡・昌黎郡(遼東属国)
これらの郡が三国時代に幽州にあったわけですが、それぞれの郡に一人ずつ太守がいました。 |
優れた人物の雰囲気がある人物として登場する劉焉ですが、
実際の劉焉は野望高き人物であり、
益州牧として益州へ赴き、地方独立を夢見た人物ですね。
「劉璋の父親が劉焉である」と言えば、分かる方も多いかと思います。
もともと軍事権がなかったのが「刺史」ですが、
実は劉焉が霊帝を説得した形で生まれたのが「州牧」でした。
刺史はその州の中にある郡の太守に命令することはできず、
有事の際も軍事権がなかったのに対し、
一方の州牧は軍事権を持っていた事で、
その郡の太守に命じることができたという大きな違いがあったりします。
ちなみに劉焉が幽州太守・幽州刺史・幽州牧に任じられたというような記録は、
正史には残っていませんので、三国志演義で取り入れられた演出だと思われますね。
後に劉焉の息子である劉璋が益州に劉備を招き入れて、益州を奪われてしまうわけですが、
その時の伏線として劉焉と劉備を最初に出会わせる設定にしたのでしょう。
黄巾賊討伐 -初陣-
横山光輝三国志(2巻27P~29P)より画像引用
劉備らは劉焉からの命令を受けて、黄巾賊討伐に乗り出します。
劉備が初陣として赴いたのは、
大興山で勢力をほこっていた程遠志・鄧茂の討伐した。
・程遠志(大将)
・鄧茂(副将)
劉備の軍勢をなめて勝負を仕掛けてきた程遠志と鄧茂でしたが、
程遠志は張飛に、鄧茂は関羽に一合で斬り捨てられてしまい、
結果は劉備軍の大勝で幕を下ろしています。
劉備の師である盧植を訪ねて…
横山光輝三国志(2巻81P)より画像引用
鄒靖将軍のもとで黄巾賊討伐で活躍していた劉備でしたが、
劉備が幼き頃に学んでいた師である盧植を助けるべく、盧植の元へと駆けつける事を決意します。
盧植が戦っていたのは、黄巾賊の主力部隊であった事もあり、
苦戦を強いられていたのです。
そして盧植と劉備は再会を喜ぶと同時に、共に黄巾賊討伐にあたるものの、
黄巾賊も手強く、二カ月経っても決着がつかない状態でした。
そこで盧植は持久戦を覚悟したうえで、
黄巾賊討伐の激戦地区であった潁川郡へと劉備を向かわせます。
劉備はここで見事な計略(火計)によって黄巾賊討伐を果たすのでした。
そして生涯の宿敵とな劉備と曹操が、初めての出会いになる戦場でもあったわけです。
横山光輝三国志(2巻120P)より画像引用
〈潁川郡での激闘/史実(波才VS官軍)〉
豫州潁川郡は史実でも、最も激しい激戦区だとされていた場所で、
波才が率いる黄巾賊に大変な苦戦を強いられた場所でもあり、 最終的になんとか勝利を得られた場所でもあったりしますね。
波才は朱儁・皇甫嵩・曹操・孫堅など、 そうそうたる面子を相手に抵抗を繰り広げた人物で、
黄巾賊を代表する優れた人物の一人だったのではないかと私は思っています。
ちなみに孫堅は朱儁軍に付き従った形で参戦していますね。 |
張宝討伐戦(鉄門峡の激闘)
横山光輝三国志(2巻198P・199P)より画像引用
「三国志演義」の張宝は、妖術使いとして登場しています。
「横山三国志」では、
苦戦を強いられる朱儁に頼まれる形で討伐に向かう劉備でしたが、
張宝は鉄門峡の地形を利用し、
そこで発生する強風を妖術のように見せかけていたのでした。
それを見破った劉備は、背後から奇襲をしかけ、
その中で劉備が張宝を討ち取った事で大勝利を収めることに成功します。
たった少数の劉備率いる義勇軍の活躍により、
張宝率いる数万という黄巾賊が敗れた戦いでもあったわけです。
ちなみに「三国志演義」では、
張宝は劉備にではなく、朱儁に破られていますし、
最終的に部下の厳政に討ち取られて亡くなっているのは余談です。
そして劉備が張宝を討ち取る演出を考えたのは、
「吉川三国志」で知られる吉川英治になりますね。
そして横山三国志でも、その設定が踏襲されているわけだったりします。
ちなみに史実では、皇甫嵩によって張宝は敗れていたりします。