黄巾賊の滅亡(漢王朝の勝利)

横山光輝三国志(3巻14P)より画像引用

 

劉備ら義勇軍の活躍により張宝は討たれ、

張角は反乱の最中に病死、残された張梁も皇甫嵩によって討たれてしまい、

 

苦戦を強いられたものの、こうやって黄巾の乱は終焉を迎えたのでした。

 

ちなみに皇甫嵩は、曹操と共に張梁を討ち滅ぼし、

張角の棺を暴いて屍を辱めたという話が「三国志演義」で描かれていますね。

 

 

その後に「横山三国志」では、黄巾賊討伐の手柄から、

 

皇甫嵩は益州太守に、

朱儁は車騎将軍・河南長官という官職が与えられています。

 

「河南長官」は「河南尹の太守」だと書いた方が、

まだ分かりやすいと思いますので軽く補足しておきます。

 

 

「河南尹」は都であった洛陽とその周辺を統治するの役割であったことから、

 

益州・荊州・揚州等の各郡の太守よりも、

立場的には信頼がおける人物が置かれる事が多かったのが実情でした。

 

 

 

ちなみに何故に「横山三国志」で変更されているのかは疑問ではありますが、

 

「三国志演義」で、車騎将軍に任じられたのは朱儁ではなく皇甫嵩であり、

また同時に皇甫嵩は冀州牧に任じられています。

 

そして黄巾賊で大きな手柄を上げた劉備でしたが、

その功績とは裏腹に、片田舎である安熹県の警察署長に任じられるにとどまったのでした。

 

つまり「冀州中山国安熹県の尉」に任じられたという事ですね。

張飛&督郵

横山光輝三国志(3巻76P~79P)より画像引用

 

劉備は安熹県に来てから四カ月の月日が過ぎたわけですが、

劉備は多くの民衆から慕われるに至っていました。

 

 

しかしそんな時に帝の使者である督郵が、劉備の仕事ぶりを見る為に訪れます。

 

督郵は賄賂を求めるも、劉備が賄賂を支払う事はなく、

その為にある事ない事をでっち上げ、帝へ報告しようと試みたわけです。

 

 

これに大変な怒りを覚えたのが張飛であり、

督郵を木に吊るし上げ、棒で何度も何度も叩き続けます。

 

非が督郵にあろうとも、帝の使者を傷つけた事で、

劉備らは安熹県から逃げるしかなく、これがきっかけとなり去っていくのでした。

 

 

ちなみに「督郵」とは人名ではなく官職名であり、

もともと郡太守によって派遣されるもので、監察を行ったりする任務であったのです。

 

なので帝というよりは、ここでは「中山国の相」が、

劉備の仕事ぶりを確認する為に遣わしたというのが正確な所だと思います。

  • 郡の長→太守
  • 国の長→国相

 

 

また「横山三国志」では、張飛が督郵を棒で殴ったような記載になっていますが、

「三国志演義」では棒ではなく、柳の枝で叩いているのは余談です。

 

ちなみに正史の方では、劉備に会おうともしなかった督郵に腹を立て、

「劉備が棒で督郵を二百回ほど叩いた」と書かれてあります。

 

そして横山三国志では「張飛」と「棒」を組み合わせて描かれたのでしょう。

劉備が安熹県の県令の際に、張飛が督郵を叩いた話は本当なのか!?

十常侍(宦官)の悪政

横山光輝三国志(3巻131P~132P)より画像引用

 

皇帝の身近で世話をしたいた者達に宦官がいますが、

彼らの中でも大きな力を持っていた十人の中常侍をまとめて十常侍と呼んでいました。

 

ちなみに「三国志演義」では、

十常侍の人数は、名前の通り下記に紹介する十人ですが、

正史では十二人となっている違いはあります。

  • 張譲
  • 趙忠
  • 蹇碩
  • 封諝
  • 段珪
  • 曹節
  • 侯覧
  • 程曠
  • 夏惲
  • 郭勝

 

この中でも比較的有名なのは、張譲・趙忠・蹇碩の三人でしょう。

他は比較的マニアックな方々なので知らない方が多いかもしれませんね。

 

 

また曹操の祖父である曹騰も宦官でしたが、

安帝・順帝・沖帝・質帝の四人の帝に仕え、中常侍に任じられた事もありますし、

最終的に宦官の最高位である大長秋にまで上り詰めた人物になります。

 

また曹騰は張譲・趙忠・蹇碩らと違って、

優れた人物を多く推挙し、優れた逸話も残されていたりします。

 

 

この張譲を筆頭とした十常侍が皇帝であった霊帝を利用し、

賄賂を求め、好き勝手な政治を行い続けた事で国が乱れに乱れていきます。

 

張角が起こした黄巾の乱もこういった背景の中で勃発した反乱でもあったわけです。

霊帝の崩御&何進の死

横山光輝三国志(3巻147P)より画像引用

 

中平六年(189年)に、

漢王朝(後漢)の12代目皇帝であった霊帝が崩御するわけですが、

 

これに伴って劉弁と劉協による後継者争いが勃発します。

卑しい身分から大将軍にまで上り詰めた何進でしたが、

その理由は霊帝の正妻にまで上り詰めた妹の何皇后の存在が大きくありました。

 

そんな何皇后と霊帝の息子であった劉弁(少帝)、

そして王美人と霊帝の息子である劉協(献帝)の後継者争いの中で、何進と十常侍の対立が起こります。

 

しかしこの争いは何進ら外戚に軍配があがり、劉弁が13代目の皇帝となるわけですが、

何進もこの争いの渦中の中で命を失う事になります。

 

 

また何進は十常侍ら宦官を討ち滅ぼすべく、

各地より多くの力ある者達を洛陽へと招いており、

 

これにより時代は群雄割拠時代へと突入していく事となるのでした。