「三都賦」で知られる左思(太沖)

左思さしは字を太沖といい、斉国臨淄県の出身になります。

斉国臨淄県というのは、かつて戦国時代の斉の首都があった場所です。

 

三国時代で言えば青州にあたるので、

青州と考えてもらう方が分かりやすいかもしれません。

 

 

ではなぜ斉国出身と分かりにくい表記をされているのかと言えば、

 

司馬炎によって新たに晋が建国された265年に、

司馬攸が斉王に封じられ、再び斉国が置かれたからでしょうね。

 

ちなみにこの時に、斉国は次の五つを管轄しています。

  • 臨淄県
  • 西安県
  • 東安平県
  • 広饒県
  • 昌国県

 

 

左思は左雍の息子として誕生していますが、

寒門出身であり、普通に考えると出世する事が不可能な時代でもありました。

 

かつての採用制度である郷挙里選の制度の時からもそうでしたが、

曹丕の時代に九品中正法が生み出されてからは更に悲惨でした。

 

 

「上品に寒門なく、下品に勢族なし。」という言葉が全てを物語っています。

 

これはつまり上品に家柄が低い者はおらず、

逆に下品に家柄が良い者はいないといった意味合いになりますね。

 

 

ちなみにですが、父親の左雍は地方の小吏から、

中央の殿中侍御史にまで出世した事が「晋書」左思伝には記載が残されています。

 

また左思には左芬さふんという妹がいましたが、司馬炎の妃となってます。

このあたりから少しずつ左思の運命が良い方に向かっていく事となるわけです。

 

 

そして左思は「三都賦」を完成させたことで、

「洛陽の紙価を高からしむ(洛陽紙貴)」の故事の由来となった人物でもありますね。

 

 

「三都賦」とは、魏都賦・蜀都賦・呉都賦からなるものであり、

 

魏呉蜀の三国の都を題材に書かれたものであり、

陸遜の孫である陸機に、訂正するような所が何一つないと言わしめた程の作品でもあったりします。

貴人左棻墓誌の発見による新事実

 

ちなみに上で記載した左思の供述ですが、

これらは「晋書」左思伝に書かれてある内容でもあったりします。

 

しかし左思の妹である左芬は、奇跡的にも墓誌が残されている人物でもありました。

 

墓誌というのは分かりやすく言えば、墓石の事であり、簡単な紹介文なわけです。

それが1930年に、河南省偃師縣城西十五里蔡莊村にて出土しています。

 

そこには左芬だけでなく、兄である左思や父親の事であったり、

左芬の一族の者達の名前も刻まれていたわけです。

〈漢魏南北朝墓誌彙編 -録文-〉

【誌陽】左棻、字蘭芝、齊國臨淄人、晉武帝貴人也。

永康元年三月十八日薨。

四月廿五日葬峻陽陵西徼道內。

【誌陰】

父熹、字彥雍、太原相弋陽太守。

兄思、字泰沖。

兄子髦、字英髦。

兄女芳、字惠芳。

兄女媛、字紈素。

兄子聰奇、字驃卿、奉貴人祭祠。

嫂翟氏。

 

〈翻訳文〉

-誌陽(左棻について)-

左棻、字は蘭芝、斉国臨淄の人で、晋の武帝(司馬炎)の貴人である。

永康元年三月十八日に亡くなり、四月二十五日に峻陽陵の西道に葬るものとする。

 

-誌陰(左棻の一族について)-

父は左熹、字は彥雍、太原相・弋陽太守である。

兄は左思、字は泰沖である。

兄の息子は左髦、字は英髦である。

兄の娘は左芳、字は惠芳である。

兄の娘は左媛、字は紈素である。

兄の息子は左聰奇、字は驃卿であり、貴人の祭祠を奉る。

また兄である左思の妻は翟氏である。

 

まずこの墓誌から分かる事として、

左芬」の正式な名称は「左棻」であり、普通に漢字が違っています。

 

また左棻の兄は左思であっているのですが、

字が「太沖」ではなく「泰沖」であったりします。

 

 

次に父親である「左雍」ですが、父親は「左熹」と刻まれていたわけです。

 

ちなみに左熹の字が彦雍であり、二つが中途半端に混ざった形で晋書に記載されたわけでして、

それ以外にも太原相弋陽太守にまで昇進している事が分かったりします。

 

 

他にも、左思の妻や子供達も記載されているわけですが、

順番的に言うと次のような感じでしょうね。

  • 左思の妻:翟氏
  • 左思の長男:左髦(英髦)
  • 左思の長女:左芳(惠芳)
  • 左思の次女:左媛(紈素)
  • 左思の次男:は左聰奇(驃卿)

 

 

「晋書」は二十四史の一つに数えられるものですが、

司馬炎が天下を統一した280年より370年近く後である648年に完成しています。

 

 

「晋書」の編纂を命じたのは太宗(李世民)であり、

房玄齢・李延寿らによって編纂されたものになりますので、

 

当たり前ですが、亡くなった際に刻まれた墓誌の方が明らかに正確なわけですね。

 

 

今回の件に関しては、偶然にも左棻墓誌が発見された事で分かっただけであり、

他にも間違った記載の人物が多くいるだろう事が予想出来たりもしますが、

 

今回のような新たな証拠資料が出てこない限りは、それを知る術もなかったりするのが現状でしょう。

「世説新語」超絶不細工の左思

 

三国志の逸話も多い「世説新語」には、左思の逸話も登場したりします。

 

そこには左思は非常に不細工であった事が書かれており、

その内容を紹介すると次の文章になります。

潘岳妙有姿容、好神情。

少時挾彈出洛陽道、婦人遇者、莫不連手共縈之。

左太沖絕醜、亦復效岳遊遨、於是群嫗齊共亂唾之、委頓而返。

 

〈翻訳〉

容姿が非常に美しかった潘岳はんがくは、

若かりし頃に弓を持って洛陽の街に出ると、女の子たちに囲まれていた。

 

一方で非常に醜い容姿をしてた左思は、

潘岳の真似をして出かけたが、婆さん達につばをはきかけられてしまい、

 

泣く泣くしょげて帰ったのでした。

 

このように「世説新語」には、

左思が非常に不細工な人物であった事が書かれているわけです。

 

 

また左思の妹である左棻も左思同様に容姿が非常に醜かったようですが、

文才に非常に優れていたことが司馬炎の耳に入り、

 

泰始八年(272年)に司馬炎に迎えられた女性でもありました。

 

そしてそんな左棻ですが、

最終的に三妃の一つに数えられる貴人にまで上がるも、

司馬炎が亡くなった十年後にあたる永康元年(300年)にこの世を去っています。

三都賦&洛陽紙貴

明治書院(文選/賦篇/上)より漢詩引用

 

左思は寒門の出自ではあったものの、代々儒学の家学であり、

百家の書を読み、幅広い教養を身につけたといいます。

 

 

そして左思は洛陽にて「三都賦」を書き上げる前の斉国にいた際に、

先だって「斉都の賦」を作っていたようですが、

 

残念ながら今に伝わるのは僅かに一句だけとなっています。

 

 

後に左思が十年をかけて「三都賦」を作り上げていますが、

「斉都の賦」は僅か一年で完成させたという事で、

 

左思の中では「三都賦」を視野に入れた作品だったのかもしれませんね。

 

 

そして妹の左棻が司馬炎に嫁いでからは、晋の首都であった洛陽へと移住しますが、

張華に認められて祭酒を任されています。

 

その後に門閥貴族の筆頭でもあった賈謐かひつの推薦もあって、秘書郎となっています。

 

そして左思はこの時の官職を利用して、

「三都賦」の参考になる資料を多く集めたようです。

 

ちなみに賈謐は司馬炎の重臣である賈充の孫で、賈南風の甥にあたる人物になりますね。

 

 

そういう中で「三都賦」を完成させた左思でしたが、

「私の三都賦は班固や張衡に劣らぬものであるが、

寒門出身ゆえに黙殺されるのではないか!?」

と心配したといいます。

 

この時に左思が意識した班固と張衡ですが、

「両都賦(班固)」や「二京賦(張衡)」の有名な賦のことになります。

 

そして左思の予想は悪い意味で的中し、あまり評価される事がなかったのでした。

 

 

しかし張華が左思の「三都賦」を高く評価し、

既に名が知られていた皇甫謐こうほひつに序文を書いてもらうように勧めたのでした。

 

 

序文とは「はしがき」のことであり、

その作品の趣旨や成立の由来などを記したものになりますね。

 

これは著者自らが書いたものと、左思のように他の人物に書いてもらったものがあったりします。

 

ちなみに「三国志」著者である陳寿が自ら記載した序文も今に伝わっていませんが、

本来はあったと言われています。

 

 

そして張華の言うとおりに行動すると、「三都賦」の評価は非常に高くなり、

誰もが模写をする為に紙を買い漁った事で、洛陽の紙の価格が高騰したのでした。

 

これが最初にも少し述べましたが、

「洛陽の紙価を高からしむ(洛陽紙貴)」の故事を誕生させたわけです。

 

 

陸遜の孫である陸機は、弟の陸雲と共に、

張華から「呉討伐の戦果は、二人の俊才を得たことである。」とまで言わしめた人物ですが、

 

そんな陸機ですが、最初は「左思の作るものなぞ」と馬鹿にしていたようですが、

実際に左思の「三都賦」を見て脱帽したと伝わっています。

 

 

そんな左思の「三都賦」ですが、

「三都賦」の内容からして呉が滅亡する少し前に完成したと思われます。

 

どんな内容であるかと軽く説明しますと、

「魏都賦」の中に魏は既に滅亡しており、呉も間もなく滅亡すると書かれてあるのが理由です。

 

左思の正確な誕生年は分かっていませんが、おおよそ250年だと言われていますので、

279年に完成したとすると、三十歳あたりの作品という事になります。

 

 

ただ呉滅亡後に陸機が洛陽に入朝したのが太康十年(289年)だとされていますので、

そう考える十年近くの誤差が発生するんですよね。

 

さすがに間が空き過ぎな気もしますが、

このあたりはもう想像で考えるしかないかなと個人的には思っています。

 

 

そんな左思でしたが、偶然かどうかは不明ですが、

妹の左棻が亡くなった永康元年(300年)と同じ年に、

 

八王の乱の混乱の中で賈謐が殺害されてしまうと、

官職を辞して郷里に戻ったと「左思別伝」には記録が残されています。

 

そんな左思ですが、305年前後に亡くなったといいます。