董卓と李儒の最期

横山光輝三国志(8巻48P・53P)より画像引用

 

王允と貂蝉が仕掛けた美女連環の計ですが、

貂蝉の苦労も実を結び、董卓と呂布の亀裂は決定的となります。

 

そして最期は王允に一押しされる形で、呂布は董卓殺害を実行に移したのでした。

董卓はこれをもって人生に幕を下ろすことになります。

 

 

「魏志」董卓伝(裴松之注「英雄記」)では、

市場に晒された董卓のへそに灯心を挿したところ、数日にわたり燃え続けたといいます。

 

また90歳を超える董卓の母親が命乞いをした際にも、

許されることはなく、その場で首をはねられた記録が残されていますね。

 

そして呂布は董卓の腹心として暗躍した李儒も、

董卓の後を追うように呂布に殺害された様子が横山三国志では描かれています。

 

ちなみに三国志演義では、連座の罪により捕らえられた李儒ですが、

四つ裂きの刑によって最期を迎えています。

貂蝉の最期

横山光輝三国志(8巻68P)より画像引用

 

横山三国志での貂蝉は、美女連環の計が成功した事に満足して自害して果てていますが、

「三国志演義」では、その後は呂布の妾となって生き延びています。

 

ちなみに横山光輝さんが参考にした「吉川三国志」でも、自殺して果てるという設定が用いられています。

 

 

一般的に架空の人物とされている貂蝉ではありますが、

山西省忻州市木芝村貂蝉の墓が現存しています。

 

ちなみに木芝村に貂蝉の墓があるのは、ここが貂蝉の故郷とされているからです。

 

 

ただ貂蝉の本来の故郷は并州五原郡九原県木耳村とされているので、

移り行く季節の中で、木耳村から木芝村に村の名前が変わっていったとされていますが、

 

村の位置が立地的にズレていたりする矛盾があったりするのも現状です。

王允の死&呂布の亡命

横山光輝三国志(8巻76P)より画像引用

 

董卓を討ち取る事に成功した王允や呂布でしたが、

その後に李傕・郭汜の罠にはまる形で王允は処刑され、呂布は長安から落ち延びています。

 

正史では李傕・郭汜の降伏を認めなかった王允により、

進退窮まった二人は逃亡する事も検討しますが、

「長安攻撃をしてからでも遅くはないでしょう」という賈詡の助言を受け入れています。

 

結果的に破れかぶれの計画は見事に成功しています。

 

この時の王允と呂布の最期の会話が、

「魏志」董卓伝(裴松之注「漢紀」)に残されています。

呂布「王允殿、共に落ち延びましょう。」

王允「国家安定という私の望みが叶わない今、私に残された道は死ぬことだけです。」

曹操と青州兵

横山光輝三国志(8巻83P)より画像引用

 

兗州に侵入してきた青州黄巾賊の討伐を命じられた曹操は、

見事に黄巾賊の平定に成功しています。

 

曹操はこの時に降伏してきた者達を吸収した事で、兵力拡大に成功しています。

 

 

正史では「青州兵」と呼ばれる者達であり、

総勢百三十万人(三十万の兵士と百万人の民衆)を獲得したとされています。

 

また青州黄巾賊討伐の流れの中で、

曹操は東郡太守から兗州牧の座を手に入れる事にも成功しています。

 

まさにここから曹操の快進撃が続いていくことになるタイミングだったわけです。

曹嵩(曹操の父親)殺害事件

横山光輝三国志(8巻107P)より画像引用

 

自らの地盤を手に入れることに成功した曹操は、

避難していた父親である曹嵩を自分の元へと呼び寄せようとしました。

 

しかし曹嵩が曹操のもとへ向かう途中で、

陶謙の部下によって殺害されるという事件が発生してしまいます。

 

これに激怒したのが曹操であり、陶謙が治める徐州へと攻め寄せたわけですが、

陶謙の危機に援軍として駆け付けたのが劉備でした。

 

 

ちなみに正史の方では、劉備と田楷(青州刺史)が援軍として駆け付けていますね。

 

またこの戦いの中で、曹操は徐州の数十万ともいう民衆を殺害しており、

「多くの死体によって泗水の流れが止まった」との記録が残されているほどです。

呂布による兗州侵攻&徐州からの曹操の撤退

横山光輝三国志(8巻138P・139P)より画像引用

 

曹操の徐州侵攻で手薄となった兗州を狙ったのが呂布でした。

呂布は連戦連勝で兗州の大部分を奪うことに成功します。

 

呂布襲撃の知らせを聞いた曹操は、徐州から兗州へと撤退していったのでした。

 

そして曹操と呂布が激突するわけですが、最初の激突は呂布の罠にかかる形で曹操が敗れ、

次は逆に曹操が呂布を罠にかける事で勝利を掴むという一進一退の攻防を繰り広げています。

 

 

正史では呂布を祭り上げたのは、陳宮と張邈・張超兄弟とされていますね。

 

ちなみに張邈は曹操が心から信頼していた人物であり、

「自分の身に何かあった際には張邈を頼れ!」と家族に伝えていたほどだったといいますから、

 

この時の曹操の衝撃は計り知れないものであったことでしょう。