高翔(高詳・高祥)
高翔は蜀漢に仕えた人物ですが、長く活躍した人物と思われるけれども、
「蜀志」に登場していない人物になります。
ただ裴松之が注釈を加えている「蜀志」諸葛亮伝の「漢晋春秋」と
「蜀志」李厳伝の「諸葛亮集」に高翔の名が登場しています。
他には「華陽国志」に記録が残されており、
そこから荊州南郡の出身であたりしたことが今に伝わっています。
ちなみに「魏志」には高翔と思われる人物の記録が残されているわけですが、
「魏志」には高詳と名前が登場しており、
裴松之が注釈を加えている「魏略」では高祥として登場しています。
ただ以下では高翔で名前は統一して進めていきます。
「魏志」曹真伝
まずは陳寿が著した「三国志」ですが、
「魏志」曹真伝と郭淮伝にその名が登場しています。
以真為征蜀護軍、督徐晃等破劉備別將高詳於陽平。
曹真を征蜀護軍に任命し、徐晃らと共に劉備軍の高詳を陽平で破らせた。 |
この文章の前には夏侯淵が討死した内容が書かれており、
この後の文章には曹操が漢中へと援軍に来た様子が描かれているので、
曹操が没する前年の建安二十四年(219年)の逸話になりますね。
「魏志」郭淮伝
太和二年、蜀相諸葛亮出祁山。
遣將軍馬謖至街亭、高詳屯列柳城。 張郃撃謖、淮攻詳營、皆破之。
太和二年(228年)に諸葛亮が祁山に進出した。 馬謖を街亭に派遣し、高詳を列柳城に駐屯させた。(柳城に屯列させた。) 張郃が馬謖を撃破し、郭淮が高詳の陣営を攻めて破った。 |
ちなみにここで登場する列柳城か柳城かは、読み方によって意見が分かれる所でもあります。
一般的には三国志演義でも描かれているように列柳城とされていますが、
結論を言ってしまえば、読み方次第なので決着しない問題でしょう。
まぁ私からしてみれば、どちらでも良いかなと思っていますが、
もしも「屯列」と読んだ場合は、街亭近辺に柳城があった事になるので、
そういった意味では、場所が全く今に伝わっていない列柳城(柳城)の位置を知る上で、
非常に重要な手掛かりになる文章になるとは思います。
また高翔を破った郭淮ですが、この時は上邽城に籠っていたはずですので、
それを考えた場合は、街亭よりも上邽城の近くにあったと考える方が自然になるでしょう。
後は「魏志」明帝紀(曹叡)の注釈にある「魏略」には、
馬謖と高翔が敗れた旨が残されていますね。
「蜀志」諸葛亮伝(裴松之注「漢晋春秋」)
建興九年(231年)五月の諸葛亮の北伐時に、
司馬懿は張郃に王平を攻めさせ、自らは中道から諸葛亮の迎撃に向かった。
諸葛亮は魏延・高翔・呉班に命じて大いに破り、三千の首級をあげ、 五千の鎧を手に入れ、三千百の弩の戦利品を獲得した。
司馬懿は撤退して籠城した。 |
「蜀志」李厳伝(裴松之注「諸葛亮集」)
諸葛亮が北伐を行った第四次北伐で、
李厳が食糧の輸送に関して嘘の情報を流した事件が発生するわけですが、
この時に諸葛亮は李厳を罪を劉禅に上奏したことによって、李厳は庶民へと落とされてしまうわけですが、
この時の上奏文にも高翔の名が登場しています。
ただこれも陳寿の本文の記載というわけではなく、
李厳伝に裴松之が注釈を加えた「諸葛亮集」だったりしますが・・・
その上奏文の中には、
「督前部・右将軍・玄郷侯の臣 高翔」と記載されており、
劉琰・魏延・袁綝・呉懿に次いで五番目に名を連ねていることからも、蜀の重鎮の一人だったことがうかがえます。
ちなみに上奏文に登場する人物を折角なので順に紹介しておきます。
- 劉琰(行中軍師・車騎将軍・都郷侯)
- 魏延(使持節・前軍師・征西大将軍・領涼州刺史・南鄭侯)
- 袁綝(前将軍・都亭侯)
- 呉懿(左将軍・領荊州刺史・高陽郷侯)
- 高翔(督前部・右将軍・玄郷侯)
- 呉班(督後部・後将軍・安楽亭侯)
- 楊儀(領長史・綏軍将軍)
- 鄧芝(督左部・行中監軍・揚武将軍)
- 劉巴(行前監軍・征南将軍)
- 費禕(行中護軍・偏将軍)
- 許允(行前護軍・偏将軍・漢成亭侯)
- 丁咸(行左護軍・篤信中郎将)
- 劉敏(行右護軍・偏将軍)
- 姜維(行護軍・征南将軍・当陽亭侯)
- 上官雝(行中典軍・討虜将軍)
- 胡済(行中参軍・昭武中郎将)
- 閻晏(行参軍・建義将軍)
- 爨習(行参軍・偏将軍)
- 杜義(行参軍・裨将軍)
- 杜祺(行参軍・武略中郎将)
- 盛勃(行参軍・綏戎都尉)
- 樊岐(領従事中郎・武略中郎将)
「華陽国志」にある大将軍の謎
そんな高翔ですが、最終的には大将軍にまで昇進したと
東晋の人物である常璩によって著された「華陽国志」には残されています。
ですが、大将軍になったというのは流石に無理があると思います。
理由は単純で、高翔が生きた時代の可能性を考えた際に、
蒋琬から費禕に大将軍が代わる間しか大将軍に任じられる可能性がないからです。
- 蒋琬(大将軍)→建興十三年(235年)~延熙二年(239年)
- 費禕(大将軍)延熙六年(243年)~延熙十六年(253年)
「空白期間は延熙二年(239年)~延熙六年(243年)」
大将軍に任じられるのなら、この期間しか可能性は低いのですが、
蒋琬と費禕の間に大将軍として任じられるのはまず可能性としてはないでしょう。
この空白期間の間にも、蒋琬が大司馬に任じられていましたからね。
そう考えた際に高官として同時期に空いていた将軍職が二つあります。
一つは車騎将軍、もう一つは衛将軍です。
- 車騎将軍:呉懿→空白期間→鄧芝
- 衛将軍:誰も蜀漢で任じられていなかった役職(後に姜維や諸葛瞻が任じられている)
こう考えると、夏侯覇も任じられたことがある車騎将軍と考えるのが自然な流れかと思われます。
ちなみに後に鄧芝が任命された車騎将軍ですが、
鄧芝はまだ名が知られていなかった頃に、占いで有名な張裕に占ってもらったことがありました。
この時の占い結果が、
七十歳を過ぎて大将軍となり、侯に封ぜられるというものであり、
そんな鄧芝が実際に任じられたのは車騎将軍だったりします。
この逸話からも車騎将軍が大将軍級として判断されると見てよいのかと思います。
そして「華陽国志」にある高翔の大将軍という記載は、
限られた将軍職の中で、車騎将軍と考えるのが一番自然な流れでしょう。
あくまで大将軍級の将軍職に任じられた場合の推察になります。