裴秀(季彦)

裴秀は司隸河東郡聞喜県の出身で、魏に仕えた裴潜の息子になります。

弟には裴耽がいますが、父親である裴潜の弟にあたる裴徽の子孫に裴松之がいます。

 

裴松之は陳寿が著した正史「三国志」に注釈を加えた事で有名ですね。

 

 

そんな裴秀に関してですが、「魏志」裴潜伝の裴松之注「文章叙録」にまとまった記録が残されています。

ただ裴秀のことは「晋書」裴秀伝も残されており、彼の功績の多くを知る事ができます。

 

裴秀は広く世事に通じており、世の中を救う能力を持っていて、

裴秀は八歳でよく文章を書いたことで、次第に名が知られていくようになっていきます。

 

裴秀は毌丘倹の推挙によって曹爽に招聘されて仕えることとなります。

〈毌丘倹の言葉〉

裴秀殿は生まれつきしっかりしており、かつ立派な人物であります。

成長してもありのままに落ちついており、周りに振り回される事もない人物です。

 

また書物を多く読み、物事によく精通しており、

人脈も豊富で、その名声も遠方まで響き渡っております。

 

彼に政務を補佐してもらい、三国を和親に導き、大府様(曹爽)を助け、

国を盛り立ててくれる才能の持ち主だと思います。

 

彼を例えるならば、子奇や甘羅のような人物でなはく、

顔(顔淵)・冉(冉有)・游(子游)・夏(子夏)らのような美徳を備えた人物でございます。

 

曹爽は裴秀を自らの掾として抜擢すると、父親の爵位でもあった清陽亭侯を引き継ぎます。

そして正始五年(244年)に父親が亡くなると、財産は兄弟に譲っています。

 

裴秀伝には兄弟という表現がされているので、

弟の裴耽以外にも現在に伝わらない兄弟がいたのかもしれませんね。

 

 

そして裴秀が25歳の時に黄門侍郎に昇進していますが、

この同時期に賈充(後に佞臣として名を残す司馬氏の腹心)も取り立てられています。

 

正始十年(249年)2月に、曹爽やその一族が処刑されると、

同様に多くの側近が処刑されるものの、裴秀や賈充は免職で済まされています。

 

 

裴秀は廷尉正として復職し、

安東将軍の司馬・衛将軍の司馬を歴任、その後に散騎常侍に就任しています。

 

司馬昭が諸葛誕の討伐に乗り出すと、陳泰と鍾会に参謀として従っており、

この時の功績から尚書に任じられ、魯陽郷侯に封じられ、邑千戸が追加されています。

 

そして魏が蜀漢を滅ぼし、そんな魏も司馬炎が晋を建国したことで滅びるわけですが、

その前年である咸熙元年(264年)に、裴秀は官制を定めるように命じられています。

 

ちなみに裴秀以外に、荀顗は礼儀を定め、賈充は法律を定めていますね。

 

 

またこれ以外にも五等爵の復刻を主導しており、

これらの功績から済川侯に封じられ、地方六十裏と邑千四百戶が与えられます。

司馬炎の後継者問題

司馬昭は後継者を司馬炎ではなく、

司馬昭の三男でしたが、司馬師の養子となっていた司馬攸を後継者に考えていました。

 

その際に司馬昭の長男でもあった司馬炎が、

裴秀に次のように尋ねたことがあったといいます。

私は後を継げないのだろうか?

 

それを聞いた裴秀は司馬昭に対して、

「司馬炎殿は人望高く、臣下に留まる器の人物ではありません。」と上奏し、

司馬昭は司馬炎を後継者に定めています。

 

そして司馬昭亡き後に司馬炎が跡を継いで晋王になると、

裴秀は尚書令・右光禄大夫となり、王沈(御史大夫)と賈充(衛将軍)と共に開府を許され、給事中も加えられています。

※「魏志」裴潜伝(裴松之注「文章叙録」)では、尚書僕射令・光禄大夫との記録が残る。

 

ちなみに裴秀の父親である裴潜は魏の尚書令に任じられていますし、

祖父の裴茂はいぼうも後漢(霊帝)の時代に尚書令まで昇進していますので、三代にわたって尚書令に任じられているということになりますね。

 

 

ちなみに給事中について軽く補足しておきますと、

後漢時代に廃止されていましたが、魏晋の時代より復活して正官となった官職です。

 

泰始元年(265年)の司馬炎の即位に伴い、

左光禄大夫を加えられ、鉅鹿公に封じられ、領邑はこれで三千戸となっています。

 

 

そんな中で裴秀を免官にするように上奏した者がいましたが、

司馬炎は裴秀を庇って罪に問う事がなかった逸話が残されています。

 

司馬炎にとって、裴秀が大変に信頼されていた人物だったという事でしょう。

 

そんな裴秀ですが泰始四年(268年)には、司空にまで上り詰めています。

裴秀の最期&司馬炎への遺言

司馬炎からの信頼も厚かった裴秀だが、

泰始七年(271年)に48歳で亡くなり、元公と諡号が与えられています。

 

裴秀は何晏以降に爆発的に流行った五石散(寒食散)を服用し、

熱酒を飲み、冷酒を飲んだことで亡くなったと裴秀伝には残されています。

 

五石散は今でいう麻薬的な要素として何晏が使用した後に流行ったもので、

散発を維持するために絶えず歩き回らなければなかったことから「散歩」の由来となったとも言われますが、

もともとは張機(張仲景)が発明した医学的なものだったとされているものです。

 

この事から裴秀は五石散を誤った服用方法でなくなったと言われています。

 

裴秀が完成させた有名なものに「禹貢地域図」「地域方丈図」の地図があげられますが、

他にも「易・楽についての所論」を著していることが文章叙録に残されています。

 

ちなみに「典治官制」「盟会図」は未完成のままに終わったようです。

 

 

そんな裴秀ですが、晋がこれからやるべきこと等を整理していたが、

それを上奏することなく亡くなっていたのですが、

 

裴秀の友人がそれらの資料などを確認してみると、呉討伐に関する事が書かれてあるものがあったのです。

それを友人が代わって司馬炎に上奏したのでした。

孫晧は残虐な人物であり、その為に国は衰退しております。

しかしそんな呉を討伐しようとする動きがありません。

 

私が呉討伐に関する事をこれまで言葉に出すことはありませんでしたが、

私は病気で立ち上がる事もできず、今にも命が尽きそうでございます。

 

そんな私が願う事は呉討伐を成し遂げてくれることでございます。

 

この上奏文によって、司馬炎は呉討伐の議論を始めたといいます。

 

ただ実際に司馬炎が本気で呉討伐の軍をあげたの咸寧五年(279年)ですが、

ただ裴秀が考えていた通り、孫晧の暴政により国力が衰退していた呉は瞬く間に滅亡する事となったのでした。

裴秀の作成した地図

※1136年に刻まれた禹跡図(禹貢地域図は現存していない。)

 

裴秀は「禹貢」を参考にして、多くの山川の地名を昔の呼び名に変更し、

今に伝わっていない地名も含め、「禹貢地域図」という精巧な地図を作成しています。

 

これは18篇かななるもので、国によって大事に保管されたといいます。

 

裴秀がこのような地図を作製したのには理由があり、

多くの乱雑で不正確な地図が多く、不正確なものが多かったからであり、

古代の地図の多くが散逸してしまっていたことが理由でした。

 

 

ちなみに「禹貢」とは、夏の始祖でもある禹が洪水を収めて整備した伝説が残されており、

その時の地名が書かれたりしている地理書になります。

 

裴秀は「禹貢地域図」の他にも、「製図六体」という製図法を編み出しており、

これらは現存していませんが、後世の中華の地理学に多大な影響を与える事となります。

 

〈裴秀が正確な地図を作る為に大事にした六つの要素〉

  • 分率(廣輪の度≒縮尺)
  • 準望(彼此の體≒方位)
  • 道里(距離)
  • 高下(高低)
  • 方邪(交差角度)
  • 迂直(曲線や直線)

 

括弧で補足をいれてはいますが、これはあくまで私が解釈した意味合いなので、

細かな詳細の意味合いはもしかすると大なり小なり違うかもしれません。

 

兎にも角にも裴秀は上記の六つの点から地図を作成するにつれ、

次のように「晋書」裴秀伝には残されています。

  1. 分率が正しくないと、その遠近が適当になる。
  2. 分率が正しくとも、準望が正しくないと、見落とす所が発生する。
  3. 準望が正しくとも、道里が正しくないと、実際に通れない場所が通れるように見えたりする。
  4. 道里が正しくとも、高低・方邪・迂直が正しくないと、距離を間違った挙句に方角を見失ってしまう。
  5. だからこそ分率・準望・道里・高下・方邪・迂直をよく検討する事が必要である。
  6. その上で作成された地図は自然と正確なものになる。

陳寿は裴寿の地図を参考にしていた可能性が高い

裴寿の禹貢地域図は国が大事に秘蔵していた事は上でも触れたことではありますが、

同時代に生きた陳寿が裴寿の禹貢地域図を見ていた可能性は非常に高いと思われます。

 

裴寿は泰始七年(271年)に亡くなったのに対して、

正史「三国志」の著者である陳寿も同時代を生きた人物です。

 

陳寿の亡くなった年月日は諸説あるものの、

「晋書」を参考にするならば元康七年(297年)に65歳で没したとされています。

 

 

そんな陳寿は当時自らの官職的にも、

裴秀の禹貢地域図などをいつでも見られるような立場にありました。

 

そんな陳寿が裴秀の地図を見てないと考える方が不自然です。

これが意味する所として、魏志倭人伝に関する記載の参考にした可能性が高いという事を意味すると思います。

 

 

邪馬台国や卑弥呼など当時の倭(日本)に関する事は、

「魏志」の中の烏丸鮮卑東夷伝の中にある倭人条に記されています。

一般的には魏志倭人伝と言われていますね。

 

魏志倭人伝に記載された邪馬台国までの距離が描かれた描写がありますが、

あやふやとも思われる記載内容から、邪馬台国の場所の特定に至っていないのが現状です。

 

大きく分けると九州説や近畿説、そしてそれ以外にも四国説も存在するに至ります。

 

細分化すると九州説でも福岡県・熊本県・大分県・佐賀県などに別れているのが現状ですが、

私個人が思う所として、大きな視野として近畿説の可能性は非常に低いとは思っています。

 

 

都合の良い自己解釈が多くなされた邪馬台国論争ですが、

高い確率で裴秀の禹貢地域図を見たであろう陳寿が、

その地図や考え方も参考にしながら「三国志」の倭についての記録も著したと考える方が自然だからです。

 

裴秀の地図しかり、この時代は呉で大きく発展した天文学然り、

私たちが想像する以上に多くの分野が発展した時代です。

 

馬鈞が伝説上のものだとされていた指南車(必ず南を指し示す装置)の復元にも成功してもいます。

 

 

実際に卑弥呼の使者だけでなく、

魏の人物で邪馬台国へ使者として訪れた張政なる人物もいますし、

倭の者達からも邪馬台国までの経路を詳しく聞いていたと考える方が自然です。

 

そのあたりだけを考えても、近畿説が非常に無理がある説だと私は思います。

都合よく解釈しなければ近畿説はまず成り立たないのです。

 

そして魏志倭人伝の記述から読み取れる邪馬台国の可能性がある場所は、

現在の数ある説の中では、九州もしくは四国であると考える方が自然だと思います。

 

 

この辺りを語っていくと、非常に深い話になってきてしまいますので、

これ以上ここで述べる事はありませんが、

 

私が邪馬台国論争や卑弥呼に対して思う事は、九州・四国・近畿地方のどこであれ、

極端に言ってしまえば関東地方であっても構いません。

 

いつか卑弥呼の墓であったり、親魏倭王の金印をお目にかかれる日がくることを願わずにはいられません。