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国分僧寺・国分尼寺

国分僧寺・国分尼寺は、奈良時代の741年に聖武天皇が各地に建立を命じた寺院になります。
国分僧寺は男性僧侶の寺であり、国分尼寺は女性僧侶の寺であり、二つセットとして置かれているのが特徴です。
ちなみに国分寺の正式名称は金光明四天王護国之寺となり、
国分尼寺の正式名称は法華滅罪之寺といいます。
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本来であれば国分僧寺と国分尼寺を合わせて国分寺と呼ぶわけですが、
国分僧寺を国分寺と呼んで、国分尼寺と分けて呼ばれている事も多いのが現状だと思います。
そして国分寺の総本山が奈良にある東大寺・法華寺になりますが、
もともとは大和国分僧寺と国分尼寺が別に作られていた事が延喜式の玄蕃寮の条(玄蕃寮式)に記録が残されています。
- 大和国分寺→東大寺(奈良県奈良市)
- 大和国分尼寺→法華寺(奈良県奈良市)
そこには延喜五年(905年)に、
大和(奈良県)の国分僧寺と国分尼寺の機能を東大寺と法華寺が引き継いだ事が書かれてあります。
国分僧寺・国分尼寺は、鎮護国家という構想に基づいて作られたという経緯があり、
疫病や震災といった災いを取り除き、国家の繁栄と平穏を祈願する事を目的に建立されたものでした。
国分僧寺・国分尼寺の現状詳細(68跡 国分寺を歩く/大住広人)





肥前国分寺


佐賀・小城・多久の歴史より画像引用
全国各地にある国分寺ですが、
ここで語るのは九州最大級とされた肥前国分寺についての記録になります。
今では伝えられる情報がほとんど残されていない現状を憂いて、
私が遠く残る記憶も含めて記録に収めておきたいと考えてブログに収めておきます。
肥前国分僧寺跡には、国分寺の名残が残る地名が今に残っています。
国分僧寺があったとされる南側の地域は佐賀県佐賀市大和町尼寺であると同時に、
国分北という別名が今でも使われています。
またそれより南に行った地域は国分南という別名が今でも使われています。
尼寺という名称自体が国分尼寺からの影響を受けているのは言わずもがなですが、
別名として国分の名が今でも根付いている地域になります。
肥前国分僧寺近辺の古地図(寛政四年&昭和九年)


私が幼い頃に見た時の記憶


今は当時の痕跡すらほとんど残っていない状態となっていますが、
かつてはここに廃寺というべきか本堂跡のようなものがあり、賽銭箱も置いてありました。
約100年以上前に禅宗寺として復興した話を聞いたことがあり、
おそらく廃寺というのは近隣の方から聞いた話と、
私自身が当時自分自身の目で見た情報の記憶から推定すると、本堂・薬師堂などであったように思います。
見た目は上でも書いたように廃寺のような感じでしたし、建物の中は荒れ果てておりました。
子供ながらに怖い印象を抱いていた事を今でも覚えております。
そしていつの間にかその建物は壊されていたわけですが、耐久面の問題からも残しておくことの危険性もあったのでしょう。
それ以外にも地図にある現在地付近には、祠のようなものもあったのを覚えています。
阿淡島神社という名前だったように思いますが、
全国各地にある淡島神社と関係があるような気がしますが、完全にこれは私の推測です。
その場合は安産や小宝に恵まれるといった女性にまつわるものであったのではないかと思いますが、
現在残っていない以上、確認する術がありません。
ただ過去のグーグルのストリートビューで確認すると、
まだ残っている映像(2013年)があった為にそれを載せておきます。

講堂跡付近の現在状況や痕跡




















発掘調査から分かった肥前国分僧寺の金堂



肥前国分寺の金堂の大きさは、南北12メートル、東西32メートルの規模だったことが分かっています。
この大きさは全国の中でもトップクラスに位置する規模になります。
ちなみに金堂とは何ぞやという事ですが、
国分僧寺の中心に位置して建てられる事が多い建物であり、そこには仏陀像が納められています。
またここに建てられていた塔の基壇は、南北24.9メートル、東西25.4メートルという大規模なものであり、
これは東大寺であったり、大官大寺に匹敵する規模であった事が分かっています。
またそこに建てられていた塔は七重の塔であった可能性が高く、高さは約80メートルもあったとされています。
国分僧寺と対をなす国分尼寺であるけれども、これは面影な何も残されていない状態となっています。
ちなみに今では痕跡すらほとんど残されていないが、肥前の国分尼寺が大昌寺であった事、
そしてそこには九州一と称された大仏(本尊薬師如来)があった事が「北肥戦誌(九州治乱記)」に残されています。
※大仏(本尊薬師如来)は行基菩薩という方が聖武天皇の詔で造ったものだとされています。
ただその仏像は一夜のうちに土一揆合戦にて灰となった事も残されています。
-本尊薬師如来の他にも灰となった仏像-
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金堂跡付近の痕跡


今は金堂跡と思われるこの小高い山のようになってる場所も、一部北側が崩されてしまっていますが、
今から二十年程度前あたりまでは北側がもう少し多く残っていました。
※最後に記憶に残っているのはその辺りまでです。
また今はそこに多く生えていた木々(その中に一本の大木あり)もすっかり伐採されていますが、
当時は木々に覆われ、昼でも日があまり当たらないような場所でしたね。
ちなみに今は立ち入り禁止となっていますが、当時この小高い山のような場所に登ると、
古い石像が何体か置いてあり、遺物のようなものがその周辺に沢山落ちていた記憶が残っています。
国分寺道(北之正面)




お地蔵さんが置かれている建物は、古くなったことでこの建物も作り直されていますが、
かつては下がコンクリートではなく、小砂のようなものでしたね。
そしてここの屋根もおぼろげではありますが、赤い色をしたトタン平屋根だった記憶が残っています。
ちなみにここにある地蔵は国分僧寺が作られた時ではなく、
享保六年(1721年)に作られたもので、国分村の平松源右エ門によって造られたものとされています。
他にも小川村と刻まれていますので、小川村の方との共同作品だったのかもしれません。
国分僧寺の名残が残っている可能性が高いと思われる跡地
国分寺があった範囲をくまなく散策しましたが
江戸時代のこの辺りの地図なども参照しながら回ってみると、
国分寺の時の名残を残すような盛り土などが今も残っているように感じましたね。
ちなみに金堂跡とされる場所は昔は現在よりも小高い山になっており、
上には石像等が置かれており、異物が多く落ちていたのを今でも覚えています。
そしてその北側にある敷地拡大に伴い、小高い山の一部が壊されました。
時代の経過と共に次第に形を失っていくものでもあると思うので、
昔の記憶をたどりつつ、丁寧に今回調査できる時間を取れたことが良かったかなと思ってます。
















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