若かりし頃の吾粲(ごさん)
吾粲は揚州呉郡烏程県の出身であり、呉の孫権に仕えた人物になります。
「呉志」にも個人伝が立てられている程の人物であり、
虞翻 ・ 陸績 ・ 張温 ・ 駱統 ・ 陸瑁 ・ 朱拠らと共に「十二巻」に記録が残されています。
そんな吾粲ですが、若かりし頃についての記載は限られており、
裴松之が「呉録」の注釈を付け加えていますが、
吾粲が生まれてまだ幼かった頃、孤城にいた老女が吾粲の人相を見た事があったといいます。
その老女は吾粲の母親に対して、
「この子は将来、
九卿・宰相となるべき人相をしております。」
と告げたことがあったといいます。
吾粲は出自が貧しい人物ではありましたが、
顧雍の息子であった顧邵に評価されたことがきっかけとなり、
次第に名が知られていくようになっていきます。
また顧邵は吾粲以外にも、
丁諝・張秉・殷礼を見出した人物としても知られていますね。
そんな吾粲ですが、
烏程県令に就任していた孫河に仕えたといいます。
孫河が将軍に抜擢されると、推薦されて曲阿県丞に任じられることに・・・
そして呉郡呉県出身であった陸遜・卜静・張敦と並ぶ名声まで獲得するに至ります。
孫権が車騎将軍になった頃には、
吾粲は孫権に招かれて主簿を任される事になり、
その後は山陰県令を経て、
再び中央へと呼び戻された際には参軍校尉に昇進しています。
「洞口の戦い」吾粲のエピソード
黄武元年(222年)に、
魏が大軍を率いて三方面から攻め込んでくると、
吾粲は呂範・賀斉・徐盛・全琮らと共にに洞口へ出陣して、
曹休軍の撃退に成功しています。
【三方面の戦い】
- 洞口方面(曹休・張遼・臧覇)
- 濡須口方面(曹仁)
- 江陵方面(曹真・張郃・徐晃・夏侯尚)
この洞口の戦いの中で突風が巻き起こり、
呂範が率いていた水軍が大きな被害を受けていますが、
この際に川に投げ出される者達が続出する中で、
溺れている者達のせいで自分たちの船まで転覆する事を恐れ、
助けるどころか、船にすがってくる味方の兵を殺したといいます。
しかしそんな中にあって吾粲と黄淵だけは、
危険を承知で百名以上の者達を救い上げて救助しています。
その際に「船が重くなり、
我々の船まで沈んでしまいます」と言う者達がいたが、
これに対して吾粲は、
「その時は一緒に沈むだけの事ではないか!」
と言葉を返した逸話が残っています。
「会稽太守」吾粲&謝譚とのエピソード
そして洞口の戦いで孫休ら魏軍に大きな苦戦を強いられたものの、
なんとか勝利して帰還すると、吾粲は会稽太守に任じられることとなります。
その際に会稽郡に埋もれていた謝譚という人物を、
功曹に招いた話が残っていたりします。
吾粲が誘うものの、謝譚は病気を理由に出仕することはなかったそうです。
そんな謝譚に対して、次に吾粲が行った事は、
「応龍という生き物は身を潜めているだけではなく、
時にその能力を発揮するから神秘的な存在だと崇拝されるものなのです。
また鳳凰も素晴らしい鳴き声を聴かせるから尊ばれるものなのです。
だからこそ天の彼方に姿を隠し、深い淵に潜ったままでいてはいけないのです。」
として説得にあたったといいます。
吾粲伝での謝譚の記載はここで途切れている為に、
その後に謝譚が呉に仕えたのかどうかはよくわかりませんが、
素直に考えると、吾粲伝にこの記載が残されている事からも、
呉に仕えたと見る方が自然だと思いますが、やっぱり不明としか言えません。
ただ会稽郡の「謝姓」となると、
孫権の妻となった謝夫人(謝煚の娘)であったり、
他にも「謝姓」として謝淵・謝厷・謝賛などがいることからも、
呉郡呉県の「呉の四姓」には及ばぬまでも、会稽郡で名の通った一族だったのでしょうね。
吾粲の最期
その後に吾粲は昭義中郎将に任命され、
呂岱とともに山越討伐をしたという記録も残っています。
そして再び中央へと帰参すると、屯騎校尉・少府となったといいます。
赤烏六年(243年)に孫和の「太子太傅」であった闞沢・薛綜が相次いで亡くなっており、
吾粲はそれまでの功績を認められ、その後任を任されることとなったのでした。
ただこれが吾粲の運命を大きく狂わす結果となったのですが、
その理由はいわずもがな「二宮の変」の勃発になります。
孫権は太子は孫和同様に、孫覇を同様に可愛がっていた事から、
臣下の者達が分かれて後継者争いを繰り広げたわけです。
これに巻き込まれる形となった人物で有名なのが陸遜ですね。
最終的に孫和は廃嫡となり、孫覇も処刑、新たに孫亮が太子に置かれる事となり、
孫和派を支持した陸遜も不遇の最期を遂げる事となります。
また吾粲も例外ではなく、
孫覇派である楊竺らの讒言を受けて獄死してしまっています。
そんな吾粲について陳寿は次のように締めくくってます。
「難しい情勢下にあって、
正義を貫いたことで身を滅ぼしてしまった。
これは非常に悲しい事である」と・・・
ただこの陳寿の評価は、吾粲だけに言っている評価ではなく、
同じく「呉志(十二巻)」の朱拠と共に評価がされている感じです。
なので正確には、
「朱拠と吾粲は難しい情勢下にあって、
正義を貫いたことで身を滅ぼしてしまった。
これは非常に悲しい事である」ということになりますね。