三国時代に登場する船で一般的に知られている船は、
「走舸」「蒙衝」「楼船」あたりの船が思い浮ぶ人が多いのではないでしょうか!?
折角なので簡単に三つを説明すると、
速度を徹底的に追求したのが「走舸」であり、
突撃船としての役割を果たしたのが「蒙衝(艨衝)」だったりします。
ちなみに赤壁の戦いで黄蓋が曹操軍に突撃した船を想像して貰えれば、
分かりやすいかなと思いますね。
残りの「楼船」ですが、
一言で言ってしまうと周りの船を指揮する為の主力船であり、
総大将や指揮官が乗っている船だったりします。
他にも、先頭を切って突撃して敵陣を乱す役割をもった「先登」などもあったりしますし、
細かな所で言えば他にもこれら以外にも船はあったりします。
ただここでは王濬が作り上げた呉討伐の秘密兵器ともいえる、
巨大軍船「連舫」について見ていきたいと思います。
「晋書」王濬伝にある巨大船(連舫)
歴史群像(1996年10月号 No27/総力特集/新選三国志/61P)より画像引用
280年に晋の司馬炎は、
呉の孫晧を降した事で中華統一が成し遂げられるわけですが、
この際に益州から長江の流れに乗って建業まで攻め込み、
孫晧を降した王濬という人物がいます。
その王濬に関する「王濬伝」が晋書に残っていますが、
そこには次のような記述があります。
武帝謀伐吳、詔濬修舟艦。
濬乃作大船連舫、方百二十步、受二千餘人。
以木爲城、起樓櫓、開四出門、其上皆得馳馬來往。
又畫鷁首怪獸於船首、以懼江神。
舟楫之盛、自古未有。
ここには司馬炎が呉を討伐するにあたり、
王濬に命じて巨大軍艦を作らせた逸話についての記載が載っています。
きちんと分かりやすいように翻訳すると、次のような内容になっていますね。
武帝(司馬炎)は呉を討伐するにあたり、
王濬に詔を出して軍艦を造らせた。
そこで王濬は大船である「連舫」を作り上げた。 それは一辺が百二十歩程の大きさであり、二千人余りの兵を乗せることが可能であった。
この軍艦は防壁で囲まれており、楼櫓が建っており、四方に開け放つことができた。 また船内を移動する際には馬が使われた。
そして船首に怪獣の絵を描き、これによって長江神(水神)を圧倒した。 これほどまでの軍艦は過去になかった。 |
軽く個人的な補足を入れておきますと、
「方百二十步」は、
一辺が百二十步ある正方形のような形の船という事です。
当時の一歩は六尺だと一般的に言われており、
また一尺は晋の時代は約24cmとされているので掛け算していきます。
※ちなみに漢王朝時代は一尺=23cmだと言われています。
120(歩)×6(尺)×24(cm)=17280cmの大きさになります。
つまり172.8mという大軍艦だったということですね。
「晋書」王濬伝の余談(木屑&吾彦)
「連舫」についての記載の後についての記載ですが、
「王濬伝」は次のように続いています。
濬造船於蜀、其木柿蔽江而下。
吳建平太守吾彦取流柿以呈孫晧曰
「晉必有攻吳之計、宜增建平兵。建平不下、終不敢渡。」
晧不從。
これを翻訳すると次のようになります。
王濬が蜀の地にて船を造っていると、その木屑が長江の流れに沿って下っていった。
呉の建平太守であった吾彦は、流れてきた木屑をを見て孫晧へと進言した。
「晋は呉への侵攻を計画しており、建平郡の守備兵を増やすべきです。
そして晋軍が建平郡を落とせないようなら、 それ以上下流へ進軍する事もできないでしょう」と・・・
しかし孫晧が吾彦の言葉を採用する事はなかった。 |
その後に晋の六方面作戦が実行に移され、
王濬が孫晧を降伏させたことで三国時代に幕が下りたのでした。
ちなみに建平太守を任されていた吾彦ですが、
孫晧が降伏するまで建平郡を守り通したのは余談です。
孫晧が降った事が吾彦の耳に届くと、そこにいたって吾彦も晋に降っています。
その後の吾彦は晋の政権下の元で活躍していく事となります。