楊慮 -楊儀の兄-
楊慮は楊儀の兄にあたる人物であり、荊州襄陽郡の人物になります。
ただ楊慮は十七歳で早世した人物であり、
当たり前ではありますが、
陳寿の「三国志(正史)」に個人伝が残されている人物ではありません。
ではどこに名前が残されているかというと、
裴松之が「蜀志」楊儀伝に「楚国先賢伝」の注釈を加えている事で今に伝わっています。
「楚国先賢伝」曰く、楊慮の字は威方といい、若くして徳行があり、
江南地方で最も優れた人物だと書かれてあります。
そして州郡から手厚い礼をもって迎えられましたが、
どこにも仕官することはなかったといいます。
数百人の弟子
そんな楊慮ではありましたが、
その弟子には許汜をはじめとして数百人の弟子がおり、
地元の者達は楊慮を「徳行楊君」と言って慕っていたという逸話が、
襄陽記にも記録として残されています。
ちなみに「襄陽記」は「襄陽耆旧記」と呼ばれるもので、
東晋の習鑿歯が編纂した荊州襄陽郡の地方の記録になりますね。
楊慮、字威方、襄陽人。少有德行、為沔南冠冕。
州、郡禮重、諸公辟命、皆不能屈。
年十七而夭。門徒數百人、宗其德範、號為「德行楊君」。
ただ惜しむらくは、それだけ将来性があったわけですが、
楊慮はわずか十七歳にして亡くなったのでした。
それほどまでに期待を一身に受けていた兄の存在があったからこそ、
もしかすると諸葛亮亡き後は、「兄を超えたい!」という思いからも、
その後継者に執着したのかもしれませんね。
しかしその後に諸葛亮の後継者となったのは蒋琬であり、楊儀は悲しい末路を辿る事に・・・
許汜 -楊慮の弟子-
楊慮についての情報があまりに少なすぎますが、
その限られた記録の中で、楊慮の弟子として許汜の名前があがっています。
そんな許汜ですが、三国志でも名が登場している人物になります。
また許汜が楊慮の弟子であった事も「襄陽記」に記載が残されています。
許汜、是慮同里人、少師慮、為魏武從事中郎。
與先主共坐論陳元龍者、其人也。
許汜は呂布に仕えた人物でありますが、呂布滅亡後に劉表の元に落ち延びています。
その荊州で劉備が許汜と陳登についての話をすることがあったわけですが、
この時に劉備が陳登を褒め称え、許汜を馬鹿にした逸話が有名ですね。
~劉備と許汜の逸話~
許汜はもと呂布の配下であり、かつて陳登の同僚でもありました。
そんな許汜ですが、 呂布滅亡後に荊州に落ちのびていたわけですが、
劉表と劉備の目の前で陳登の事を、 「陳登殿は横暴な人間である」と低い評価を与えた事がありました。
そしてそれを聞いた劉備は、許汜に次のように尋ねます。
すると許汜は 「陳登は客人をもてなす心が全くなく、私と口を聞いてくれない。
またそれだけでなく、自分自身が寝台で休み、 客人である私を床に寝かせる始末でもあったのです。」
それを聞いた劉備は次のように答えます。 「許汜殿は国士としての名声を持ってるのに、 いつも私利私欲を求めてばかりで、ろくな進言もしていなかったであろう。
だからこそ陳登殿は、貴方を嫌ったのでしょう。」
劉備は更に続けます。 「もし私が許汜殿をもてなしたとすれば、 私は楼上で休み、許汜殿には地面で休んでもらう事になろう。
そう考えると陳登殿はまだ優しい方だと言えよう。
そもそも陳登殿は、文武と胆志を兼ね備えた人物であり、 彼に匹敵する者などほとんどいないのが現実でもあるのだ。」
これを聞いていた劉表は大笑いしたといいます。 |