孫堅と玉璽

横山光輝三国志(53P)より画像引用

 

孫堅が廃城となった洛陽で、自陣に戻っていた最中に、

井戸から輝かしい光が溢れ出ている事に気づき、部下に光のもとを探らせました。

 

そして偶然にも井戸から発見されたものは、

宮中の混乱時に亡くなったとされていた「伝国の玉璽」だったわけです。

 

 

孫堅は玉璽を手に入れた事で、野心が芽生えます。

 

そして孫堅は何事もなかったかのようにして帰国を決意するわけですが、

玉璽の事を袁紹に告げ口していた者がおり、孫堅に対して追手が差し向けられています。

 

この追撃によって孫堅は大きな損害を出しつつも、

かろうじて逃げる事に成功しています。

 

 

ちなみにこの逸話はあくまで三国志演義の話であって、

「正史(陳寿三国志)」の記述の中に、玉璽の事が記載されているわけではありません。

 

ただ「呉志」孫堅伝に裴松之が注釈を加えている「山陽公載記」には、

「孫堅の玉璽の話を聞いた袁術は、孫堅の妻を人質にして奪い取った」

と記載が残されてもいたりもします。

 

 

そして袁術が滅亡した後は、玉璽は献帝に戻されたとされているので、

 

孫堅と玉璽の真実については想像するしかありませんが、

演義が記載しているように、孫堅が発見して持ち帰った可能性もありますし、

そうではない可能性も普通にあるわけです。

袁紹の冀州奪取計画

横山光輝三国志(104・105P)より画像引用

 

一方で反董卓連合が解散して後、

多くの兵士を抱えていた袁紹軍は食糧難に陥っていました。

 

袁紹はどうしたものかと悩んでいた際に、

逢紀が冀州刺史であった韓馥の領地を奪い取るように助言します。

 

 

ちなみに正史では韓馥は冀州刺史ではなく、冀州牧であり、

 

「州刺史」は軍事権がないのに対して、

「州牧」は軍事権をもっているので大きな違いがあったりはします。

 

話を戻すと、逢紀の作戦は次のようなものでした。

まず公孫瓚に共に冀州を攻める約束を取り付け、

冀州獲得に成功した際は、領土を二分しようと話を持ち掛けます。

 

一方で冀州を治める韓馥には、公孫瓚が攻め込もうとしている事を伝え、

公孫瓚から冀州を守るように話を持ち掛けるという二股外交でした。

 

そして韓馥の懐に入り込んだ後は、

韓馥を追い出して冀州を奪ってしまおうとした作戦だだったのです。

 

上記作戦の内容からも分かる通り、

袁紹は公孫瓚と韓馥を同時に嵌めようとしたわけです。

 

ただこの作戦は見事に決まり、韓馥は冀州を追い出される形になり、

袁紹が冀州の新たな主となったのでした。

 

 

これに対して大きな怒りを爆発させたのが、いわずもがな公孫瓚ですね。

そして公孫瓚と袁紹の間で戦いが勃発したわけです。

界橋の戦い(袁紹VS公孫瓚)

横山光輝三国志(134P)より画像引用

 

袁紹と公孫瓚の激突は、一般的に界橋の戦いと呼ばれる激突になりますね。

 

この戦いの中で公孫瓚は文醜に討たれる寸前まで追い込まれていますが、

ぎりぎりのところで趙雲に危機を救われます。

 

趙雲はもともと袁紹に仕えていましたが、

愛想を尽かして去っていた最中に戦いを目にして、気紛れに公孫瓚に助力した流れだったようです。

 

趙雲のお陰で軍を立て直した公孫瓚は、再び袁紹に勝負を挑むのでした。

白馬義従(精鋭白馬部隊)

横山光輝三国志(161P)より画像引用

 

趙雲のお陰で軍を立て直した公孫瓚は、

自らの白馬精鋭部隊である「白馬義従」で勝負をかけます。

 

しかし袁紹の罠にはまり、あっさりと全滅しかけるわけですが、

ここで再び危機を救ったのが趙雲でした。

 

 

ちなみに正史では公孫瓚の白馬義従を破ったのは、

麹義という人物で、彼の活躍によって公孫瓚は大敗しています。

 

ただ三国志演義では別のストーリーが描かれていますね。

趙雲の活躍&劉備の参戦

横山光輝三国志(180・183P)より画像引用

 

趙雲の奮闘のお陰で状況が公孫瓚に再び状況が傾いたわけですが、

劉備が公孫瓚の援軍として駆けつけてきたことで完全に流れは公孫瓚に傾きます。

 

一方で袁紹は大損害を被ってしまう展開に・・・

 

その後は一進一退の攻防が続くものの、趙雲と劉備の活躍のお陰で、

公孫瓚が袁紹相手に優勢に戦いを繰り広げていったのでした。

 

 

そんな折に袁紹と公孫瓚の仲裁をしてきた人物がいましたが、

以外にもそれは反董卓連合の敵であった董卓だったわけです。

 

董卓からすると、両者を仲裁する事で完全に恩を着せたわけですね。

これによって袁紹と公孫瓚の戦いは一つの決着を見せたのでした。