夏侯玄・李豊・張緝の命日

夏侯玄・李豊・張緝の三人は、

司馬師殺害計画を立てた事で結果として処刑された三人になります。

 

そして結果としてその殺害計画が漏洩して失敗します。

三人は捕らえられて処刑されてしまうわけですが、それが旧暦である嘉平六年二月庚戌になります。

 

ちなみに嘉平六年は254年、そして庚戌は22日の事なので、

254年2月22日ということですね。

 

 

ただあくまで旧暦の暦での月日なので、現在使われている新暦とは誤差が発生します。

新暦に置きなおすと、254年3月27日が正確な月日になるのは余談です。

司馬師殺害計画への経緯

正始十年(249年)に司馬懿のクーデターによって、

曹爽(曹真の息子)とその曹氏一族が処刑された事件が起こりました。

 

一般的に「高平陵の変」と呼ばれる政変です。

 

 

これにより曹氏と司馬氏の力関係が逆転していくわけですが、

この時に曹爽の従弟であった夏侯玄も中央に呼び戻されてしまったわけです。

 

ちなみに夏侯淵の息子であった夏侯覇が、蜀漢へと亡命した逸話は有名ですね。

 

 

夏侯玄は九卿の一つである大鴻臚に任命されるものの、

その待遇は次第に悪くなっていくことになります。

 

そんな中で李豊が張緝ちょうしゅうと共に大将軍である司馬師を殺害し、

代わりに夏侯玄を大将軍にして政権を掌握しようと画策したのですが、普通に漏洩していしまいます。

 

これによって三人が殺害され、三族皆殺しとなってしまったわけです。

 

 

まぁ正確には夏侯玄・李豊・張緝以外にも、

名が今に伝わっている人物として、李豊の息子である李韜りとうも処刑されることとなります。

 

その他にも楽敦・劉賢の三族が皆殺しとされた事が、

「魏志」夏侯尚伝(に付随する形で加えられている夏侯玄伝)に書かれてありますね。

司馬師と夏侯徽

司馬師の最初の正妻は夏侯徽と言いますが、

夏侯尚と曹真の妹でもある徳陽郷主の間に生まれたのが夏侯徽です。

 

 

ちなみに夏侯徽の実兄が夏侯玄でもあったりするわけですが、

司馬師と夏侯徽は当初は愛し合っていたといわれています。

 

しかし曹氏と司馬師の間の関係が悪化すると、その犠牲となった人物でもありました。

そして青龍二年(234年)は夫から毒を盛られて殺害されています。

 

その時の年齢が24歳という若さでした。

 

 

後に皇后が追贈されているものの、悲惨な最期だった事は言うまでもないでしょう。

 

父親である夏侯尚もそうですが、

夏侯玄・夏侯徽と不幸な末路を辿った事は同情せざるを得ません。

李豊・張緝

李豊という姓名の人物は、蜀の李厳の息子である李豊であったり、

遡れば袁術の配下にも李豊という人物がいます。

 

少し間違いやすいですが、それらの人物とはまた違った人物でもあり、

当時高い評価を受けていた人物の一人です。

 

また次のような逸話も残された人物でもあります。

曹叡が呉の降伏者に対して次のような質問をした事がありました。

曹叡「江東にも名が知れ渡っている魏の人物は誰か?」

降伏者「李豊殿が有名であります。」

 

また張緝は魏の功臣であった張既の息子ではありますが、

これまた夏侯玄や李豊と共に悲惨な最期を迎えてしまったのは同情の余地があったりします。

 

 

ちなみに三国志演義では三人の最後は腰斬という悲惨な処刑をされていますが、

正史にはそういった最期を迎えた記録は残されていません。

 

ただ裴松之が注釈を加えた「魏志」夏侯尚伝(裴松之注「魏氏春秋」)では、

李豊が腰を突かれて殺害されたとの記録は一応残されています。

 

おそらくですが、そこから飛躍する形で、

三国志演義では腰斬という悲惨な処刑の逸話とされたのだと思われますね。