徐栄(じょえい)

徐栄は幽州玄菟郡の出身で、董卓に仕えて中郎将を務めた人物です。
徐栄について残されている記録は決して多くありません。
しかし、わずかな史料の中でも特に注目されるのが、
反董卓連合軍の中核を担っていた孫堅と曹操を、それぞれ別の戦場で撃破した実績です。
後世の三国志では、呂布・華雄・張遼などの名将が大きく取り上げられる一方で、
徐栄の名前は比較的知られていません。
しかし正史の記録を見ると、董卓軍の中でも非常に優れた戦闘指揮官だったことがうかがえます。
徐栄が董卓に仕えるようになった時期について詳しい記録は残されていませんが、
董卓の配下として中郎将にまで昇進しています。
また、徐栄は同じ玄菟郡出身の公孫度を董卓に推挙した人物としても記録されています。
この公孫度は後に遼東へ進出し、遼東太守として独自の勢力を築いていく人物です。
つまり徐栄は、単なる武将というだけではなく、
同郷の人物を中央政界へ推薦するだけの人脈と影響力を持っていたことになります。
そして徐栄の名を歴史に大きく刻むことになったのが、190年に始まった反董卓連合との戦いでした。
反董卓連合軍との戦い
190年、董卓が洛陽から長安方面へ移動すると、
袁紹・袁術・曹操・孫堅ら各地の諸侯が董卓討伐を掲げて兵を挙げました。
いわゆる反董卓連合軍です。
ただし、この連合軍は一枚岩ではありませんでした。
各地の諸侯はそれぞれ異なる思惑を抱えており、
実際には董卓を打倒するために一致団結した軍勢というよりも、
董卓政権に対して各地から軍勢が集まった状態に近いものでした。
そのような中で董卓は、徐栄らを各地に派遣して迎撃にあたらせます。
そして徐栄は、ここで大きな戦果を挙げることになります。
孫堅を撃破する

当時、反董卓勢力の中でも特に積極的に董卓軍と戦っていたのが、長沙太守の孫堅でした。
孫堅は予州方面の兵を率いて北上し、董卓軍との戦いに臨みます。
ところが梁県付近で徐栄の軍と遭遇すると、孫堅軍は徐栄によって撃破されてしまいました。
この戦いでは潁川太守の李旻も徐栄に捕らえられています。
孫堅自身も何とか包囲を突破して逃げ延びましたが、
その時に従っていた兵はわずか数十騎にまで減っていたとも言われています。
さらに、この逃走の際に孫堅は、普段身につけていた赤い頭巾を部下の祖茂に着けさせ、
自分の身代わりにしたという有名な逸話も残されています。
徐栄の攻撃がいかに激しく、孫堅軍が大きな損害を受けたのかが分かる戦いです。
しかし、徐栄の戦果はこれだけではありませんでした。
曹操をも撃破した徐栄

同じく190年、反董卓側として挙兵していた曹操も、董卓軍と戦うために進軍します。
曹操は張邈の配下であった衛茲らとともに兵を率いて滎陽方面へ向かいました。
そこで待ち受けていたのが徐栄です。両軍は滎陽の汴水付近で激突しました。
この戦いでも徐栄軍が優勢となり、曹操軍は大きな損害を受けました。
曹操自身も流れ矢を受け、乗っていた馬まで負傷するという危機的な状況に陥っています。
このとき曹操を救ったのが、従弟の曹洪でした。
曹洪は自分の馬を曹操に譲り、曹操はその馬に乗って夜の闇に紛れながら戦場から脱出しました。
この戦いで曹操軍は大きな打撃を受けています。ただここで興味深いのが徐栄の判断です。
徐栄は曹操軍の戦いぶりを見て、「酸棗を攻めるのは容易ではない」と判断したと伝えられています。
つまり徐栄は曹操軍を撃破したものの、
その戦いぶりから反董卓側の兵力や抵抗力を冷静に評価していたわけです。
そして徐栄は無理に追撃を続けることなく、軍を引いて帰還しました。
この判断からも、単純に武力だけで戦う武将ではなく、戦況を見極める能力を持った指揮官だったことがうかがえます。
孫堅と曹操を破った実力
こうして見ると、徐栄は短い期間に、
反董卓勢力の中でも後に大きな存在となる二人を相次いで破っています。
一人は、後に呉の基礎を築くことになる孫堅、
そしてもう一人は、後に魏王となり、中国北方最大の勢力を築く曹操です。
もちろん、この一戦だけをもって「徐栄が孫堅や曹操より優れていた」と単純に評価することはできません。
しかし少なくとも、董卓軍の中で徐栄が非常に高い戦闘能力を持っていたことは、正史の記録からも明確です。
三国志演義では徐栄の存在感はそれほど大きくありませんが、
正史においてはむしろ、三国時代の幕開けとなる混乱期において重要な戦果を挙げた武将の一人だったと言えるでしょう。
董卓の死と徐栄の運命
その後、董卓政権は大きく揺らいでいきます。
192年、司徒の王允らによる計画によって董卓は殺害されました。
董卓が倒されると、その配下にいた武将たちはそのまま滅亡したわけではありません。
李傕・郭汜ら董卓の旧臣たちは、董卓の死後に長安へ進軍し、董卓の仇を討つことを掲げて王允政権に迫りました。
王允はこれを迎え撃つため、徐栄と胡軫を派遣します。
しかし、ここで徐栄の運命が大きく変わります。
徐栄は新豊で李傕・郭汜らと戦いますが、激戦の末に戦死してしまいました。
一方、共に出陣した胡軫は李傕らに降伏しています。
こうして、わずか数年の間に後漢末期の激動を駆け抜けた徐栄は、192年にその生涯を終えることになりました。
最初にも述べたように徐栄の生涯について伝わっている記録は非常に限られています。
しかし、その短い記録の中には、
- 董卓に仕えて中郎将となったこと
- 公孫度を推挙したこと
- 孫堅軍を撃破したこと
- 曹操軍を撃破し、曹操自身を敗走させたこと
- 戦況を冷静に判断して無理な追撃を避けたこと
- 董卓の死後も王允側に従って戦ったこと
- 李傕・郭汜らとの戦いで戦死したこと
など、非常に興味深い経歴が残されています。
特に重要なのは、徐栄が戦った相手が、
後に三国時代の歴史を大きく動かす孫堅と曹操だったことです。
もし徐栄がその後も生き続けていたなら、
董卓政権崩壊後の群雄割拠の中で、さらに大きな役割を果たしていた可能性もあります。
しかし実際には192年に戦死したため、その後の歴史に姿を現すことはありませんでした。
それでも正史に残された記録を見る限り、徐栄は決して無名の凡将ではありません。
むしろ後漢末期の混乱の中で、孫堅と曹操という後の時代を代表する二人の英雄を相次いで撃破したという、
まさに「知られざる名将」だったと評価できる人物だと思われます。






