陳琳(ちんりん)
後漢末期の時代、
外戚(皇帝の親戚)であった何進と張譲ら宦官が争っていましたが、
陳琳は最初、大将軍でもあった何進に仕えています。
何進が宦官を排除する為に、
各地の群雄を都に呼び寄ようとしますが、
陳琳は何進に対して、
「目隠しして、雀を捕まえるようなものです」
と群雄を都に呼ぶことに反対しています。
結局陳琳の言葉を聞かなかった何進は、
宦官によって殺害されてしまい、
その後、洛陽は董卓による専横を許してしまう事になります。
何進が殺害されると、
陳琳は洛陽を離れて、冀州へ逃れ、
その後、冀州牧になった袁紹に仕えています。
曹操打倒の為の檄文
蒼天航路(13巻72P・77P・79P)より画像引用
曹操と袁紹が激突間近になると、
陳琳は、袁紹から「曹操打倒の檄文」を執筆するように命じられます。
陳琳は、ここで容赦ないほどに曹操の悪口を書きまくります。
そしてその悪口は曹操だけに留まらず、
一族の悪口も容赦なくつづられていました。
これを読んだ曹操は激怒すると同時に、
これほどまでの文章を記載した陳琳の才能を高く評価します。
その後、曹操と袁紹がぶつかることになりますが、
官渡の戦いで、袁紹は曹操に敗れてしまいます。
それから少しして袁紹が死ぬと、
袁譚と袁尚の間で後継者争いが起こり、
そこにつけ込んだ曹操によって、
袁家は滅ぼされてしまいます。
陳琳は袁紹亡き後、袁尚に仕えていましたが、
鄴が陥落すると曹操に捕らえられてしまいます。
曹操の前に連れてこられた陳琳に対して、
「お前は私だけでなく、
どうして祖父や父の悪口まで書いたのだ!?」と問いかけます。
陳琳は答えます。
「一度放とうとした矢を、途中でやめることなどできません」
これを聞いた曹操は、陳琳を許しています。
孫権への檄文
蒼天航路(13巻78P)より画像引用
曹操に仕える事になった陳琳ですが、
軍謀祭酒に任命されています。
この軍謀祭酒という役職は、
国政関係で、重要な文章を作成する仕事でした。
つまり曹操を激怒させた文章の才能を高く評価したからこそ、
陳琳の才能を発揮できる仕事を任せたわけです。
後に陳琳は、
孫権への檄文を執筆しています。
この檄文を見た孫権の反応は、記録として残っていませんが、
おそらく孫権が激怒した姿は安易に想像できますね。
曹操の元でも変わらず、いかんなく才能を発揮した陳琳は、
建安七子の一人に数えられています。
また曹操の息子である曹丕は、
「陳琳と阮瑀(げんう)が表現するものは、
今の時代において最高に優れている」と陳琳に対して最高の評価をしています。
※阮瑀も建安七子の一人