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江南八絶(こうなんはちぜつ)
後漢末期の時代から三国の時代にかけて、
多くの英雄達が覇を競い合っただけでなく、様々な文化が大きく花開いた時代でもありました。
特に曹操・曹丕・曹叡らが治めた魏国でですね。
建安七子(曹操・曹丕・曹植を加えて三曹七子)であったり、
竹林の七賢と呼ばれた知識人がいたりしたことはよく知られています。
〈竹林の七賢〉
- 阮籍(げんせき)
- 嵆康(けいこう)
- 山濤(さんとう)
- 劉伶(りゅうれい)
- 阮咸(げんかん)
- 向秀(しょうしゅう)
- 王戎(おうじゅう)
一方南のちである揚州(江南)でも、
「江南八絶」と呼ばれる優れた八人の者達がいました。
一般的に「江南八絶」と言われる人達ですが、「呉興八絶」と呼ばれたりもします。
この八絶に数えられる八人は、
趙達・劉惇・呉範・厳武・皇象・曹不興・宋寿・鄭嫗を指します。
趙達(九宮一算術を用いた占いの達人)
趙達は九宮一算術(九宮算)の占いを得意とした人物です。
ちなみに九宮一算術というものは色々な使い方が可能な占いであり、
ある時は空を飛んでいるイナゴの数を見事に的中させたことがあったり、
また隠している物を質問された際に、それを見事に的中さた逸話も残されています。
そんな趙達に対して、
「飛んでいるイナゴの数を当てることなど無理だ!
どうせでまかせの数であろう。」と疑われた事もあったようです。
趙達は疑う者に対して、筵の上に小豆をばらまき、小豆の数を的中させて驚かせたといいます。
趙達が知人の元へと立ち寄ると、食事をもてなされた事がありました。
そして知人は趙達に対して、
「急な訪問で酒も良い肴も準備できずに申し訳ない。」と謝罪するも
趙達は箸を算木の代わりとして占い、家の左側にある壁に一石の美酒、三斤の鹿肉がある事を見抜き、
何故に嘘をついたのかを問うたといいます。
趙達の言葉を聞いた知人は、他にも人がいた事で恥じ入り、
ただただ趙達の占いの力量を試す為だったと繕うしかなかったという逸話も残されています。
またある時には、何も書かれていない数千数万の竹簡を空の倉庫に入れて封をし、
趙達にその竹簡について占いをさせた者がいました。
しかし張達はその数を見事に当てただけでなく、
竹簡の中身が何もない事まで、ずばり的中させています。
黄龍元年(229年)、孫権が皇帝に即位した際に趙達に問います。
孫権「私は天子として、どれぐらいやっていけるだろうか?」
趙達「漢の黄祖(劉邦)は12年間在位してらっしゃいました。 陛下の場合はこの倍にあたる24年にわたるでしょう。」 |
趙達の言葉どおり、孫権は 神鳳元年(252年)に崩御しています。
これ以外にも呉が滅亡する天紀四年(280年)をずばり的中させた記録もあり、
趙達が亡くなった日さえも、趙達は事前に分かっていたそうです。
劉惇(天文・占数の達人)
劉惇は、天文・占いに通じていた人物であり、
劉惇は、天文・占数を用いて、
水害や乾害の時期を的確に当てることができました。
またそれだけではなく、山賊や海賊などが侵入してくる時期まで、
的確に当てる事ができたようです。
劉惇の占いがあまりによく当たるので「神明」と呼ばれ、
孫策・孫権の従兄にあたる孫輔(そんほ)は劉惇を軍師に任命するほどでした。
ある時、孫権が星に異変が見られた際に、
「これは何か起こったのか?」と劉惇に尋ねる事がありました。
そうすると劉惇が、
「現在丹陽郡で災禍が起こったのです」と迷うそぶりもなく返事します。
孫権が「どんな災いか分かるか?」と尋ねると、
「部下が主人を殺したのでしょう。某月某日に知らせがやってきますよ」と返したそうです。
それから少しして、
「孫翊(そんよく)に仕えていた辺洪(へんこう)が謀反を起こし、
孫翊様を殺害してしまいました。」という知らせが届きました。
※孫翊:孫堅の子で孫策・孫権の実弟
この日は劉惇が予想した日であり、劉惇の占いが見事に的中したのでした。
204年の出来事でした。
劉惇の占いはよく当たり、
呉の儒学者として有名であった刁玄(ちょうげん)も絶賛しています。
呉範(風占いの達人)
呉範は、風占いを得意とした達人。
呉範の風占いは具体的に多くの事を当てており、
揚州でも呉範の名は知れ渡っていました。
207年に孫権が父の仇でもある劉表配下の黄祖を攻めようとした際、
「今年は攻めても良い事はないので、来年攻めると良いですよ。
来年には劉表も死んで国が亡びるでしょうから」と呉範が孫権に述べた事がありました。
孫権は呉範の言葉を信じずに黄祖を攻めますが、黄祖に撃退されてしまいます。
そして翌年の208年に、再度黄祖を攻めるのですが、
黄祖を打ち破り、孫堅の仇でもあった黄祖を捕らえて処刑することに成功。
またそれから少しして劉表もこの世を去っています。
212年には、「今から2年後、劉備が益州を獲得するでしょう」と占い、
呉範の予想通り、その2年後にあたる214年5月、
劉璋が降伏した事で劉備は益州を手に入れ、見事に的中させたのでした。
それ以外にも関羽が捕縛される時期を当てたり、
魏の曹丕の侵攻に対する予言など多くを占いで的中させています。
厳武(囲碁の達人)
厳武は囲碁の天才で、呉では囲碁が盛んに行われていました。
しかし厳武に敵う者は誰もいませんでした。
有名どころでいえば、
孫策・陸遜・諸葛瑾・呂範も囲碁を得意としたようですが、
おそらく厳武に軽くあしらわれていたのでしょうね。
魏で「建安七子」と呼ばれていた孔融や王粲も囲碁を得意としたようですが、
厳武と対局したかどうかは定かではありません。
ちなみに世界最古の棋譜として現在まで残っているのは、
中国最古の碁本「忘憂清楽集」に書かれてある孫策と呂範の対局だそうですよ。
後世の創作だとも言われていますけど・・・
ちなみに棋譜を見る限り、途中の43手で終わっています。
曹不興(絵画の達人)
曹不興は、絵画の達人。
曹不興の絵画の才能は人並外れており、
ある時孫権に贈る屛風に筆を落として墨をつけてしまうことがあったようです。
曹不興は筆を落としてつけた墨を利用してハエを描いてごまかしました。
そしてその屛風を孫権に贈った所、
孫権は本物のハエだと思って手で払いのけようとしたそうです。
そんな中で、曹不興が最も得意としていたのは、
龍・虎・馬・人物を描く事でした。
これらを描く際の筆さばきは人並外れており、
書き出して間も無く完成するというほどの腕前だったそうです。
完成された絵を見ても、指摘するような所が全くないほどの出来だったといいます。
またこの頃、中国にも新興宗教であった仏教が入ってきている時期で、
247年、揚州で最初の仏教寺院「建初寺」が建立されました。
曹不興は「建初寺」に仏像を描き、絵巻物を寺に献上し、
中国の仏教普及にも貢献しています。
曹不興は、この活動から中国初の仏像画家とも言われるようになりました。
魏・晋でも仏教が普及してくると、曹不興の名は天下に轟いたそうです。
皇象(書道の達人)
皇象は幼い頃から書道に秀でていました。
黄巾の乱討伐にも貢献した張超(ちょうちょう)の名が
既に知れ渡っていましたが、
この張超と同じく評価された人物に陳梁甫(ちんりょうほ)でした。
しかし二人の書法にはそれぞれ欠点があり、
皇象はそこに注目し、二人の書法の中で悪い部分を斬り捨て、
良い所だけを真似して独自の書法を確立させます。
そうすると皇象の名は天下に轟き、「江南八絶」に数えられるまでになったそうです。
宋寿(夢占いの達人)&鄭嫗(人相占いの達人)
最後は宋寿と鄭嫗をまとめて紹介します。
宋寿は夢占いを得意としており、
一方の鄭嫗は人相占いを得意としていました。
そのため、他の六人に加えて「八絶」に数えられるようになったようです。