胡軫(文才)の人となり

胡軫こしんは涼州人物で、同郷出身の董卓に仕官しています。

 

胡軫は個人伝が残された人物ではありませんが、

「呉志」孫堅伝などに胡軫についての記録が残されていたりしますね。

 

胡軫は武勇に秀でた人物ではありましたが、

態度が傲慢で、短気な性格だったことからも人望が薄かったといいます。

 

 

また董卓の洛陽入城後、呂布を仲間に引き込む事に成功した董卓ですが、

胡軫と呂布の関係性は非常に悪かったのです。

 

そんな中で董卓と反董卓連合(盟主:袁紹)の戦いが勃発するわけですが、

ここで二人の仲の悪さが勝敗に大きな影響を及ぼす事になります。

陽人の戦い(董卓VS孫堅)

董卓と袁紹を盟主とする反董卓連合が激突すると、

各方面で董卓有利の状況で戦況が動いていく事となります。

 

河陽津では王匡を、滎陽汴水では徐栄によって曹操・鮑信が破られ、

孫堅もまた徐栄に敗れています。

 

 

このまま董卓優勢のまま展開していくかと思いきや、

胡軫・呂布らと孫堅が戦った陽人の戦いで大きく情勢は一変していく事となります。

 

袁術の支援を受けて軍を立て直す事に成功した孫堅は、

梁県の陽人に駐屯し、機会をうかがいます。

 

そこに董卓は胡軫を総大将に、呂布・華雄に迎撃を命じたのでした。

 

 

しかし呂布は胡軫の命令に従わないばかりか、味方を敗北する手段を次々とやったわけです。

呂布「孫堅は既に撤退して、

陽人城に残っている兵は少数であるぞ」と偽情報を味方に流布。

→準備万端の孫堅軍へ突撃して胡軫は敗北。

 

呂布は戦に備えて休んでいる味方に対して、

「孫堅が奇襲してきたぞ!」と嘘の情報を流布。

→味方は大混乱を起こし、武具を投げ捨てて味方は逃亡。

 

胡軫はなんとか軍を立て直し、再度孫堅に戦いを挑むも、

士気が低下していたこともあいまって敗北し、この時に華雄も討死してしまいます。

 

つまり呂布が胡軫を貶める為に色々と邪魔をしたことで、

董卓軍は大敗北を喫してしまったわけですね。

 

 

そして当の本人の董卓はというと、状況が不利であることを悟ると、

漢王朝の都であった洛陽を焼き払って長安へと遷都してしまっているのは余談です。

董卓 -三国乱世を加速させた暴君-

董卓の殺害&胡軫の裏切り

独裁政治を貫いていた董卓でしたが、

王允は董卓の腹心であった呂布を味方に引き入れます。

 

 

これによって董卓は殺害されたわけですが、

 

呂布は董卓の侍女と密会していた逸話もあったりしますので、

呂布と董卓の関係が悪化していた所を王允に利用された形だったのが実情でしょうね。

 

董卓殺害後は、胡軫は王允・呂布側に味方するも、

同じく董卓残党軍であった李傕・郭汜が一か八かで長安へと兵を差し向けてきます。

 

 

この戦いで胡軫同様に王允・呂布側についた徐栄と共に迎撃を命じられますが、

ここで胡軫が李傕・郭汜に寝返った事で、徐栄は戦死してしまいます。

 

 

ちなみにですが、胡軫が裏切った理由は次の二点です。

 

一つは言わずもがな呂布が嫌いであるという事が理由ですが、

もう一つは王允の傲慢な態度が気に食わなかったことだといいます。

 

結果として王允は捕縛されて処刑、呂布は長安を脱出して落ち延びていくこととなります。

胡軫の最期(胡軫と游殷)

李傕・郭汜に寝返った胡軫は、その後はこれといった活躍は何もしていません。

 

ただ胡軫は昔から仲が悪かっ游殷ゆういんを、無実の罪で処刑する事があったそうです。

処刑の理由は游殷が嫌いだったからだといいます。

 

 

ちなみにこの游殷の子は、

諸葛亮の第一北伐で活躍した隴西太守の游楚になります。

 

胡軫がその游殷を処刑した一か月後に、胡軫は病気にかかり、

「私が本当に悪かった。」と譫言を繰り返しながら亡くなったのでした。

 

 

この件があってからというもの、

「游殷の呪いで胡軫が亡くなった」と民衆は噂するようになったのと同時に、

胡軫を呪い殺した游殷は褒め称えられたといいます。

 

このことからも分かるのは、

胡軫は民衆からの人望も非常に薄かったという事ですね。

諸葛亮の第一次北伐が水泡に帰した最大の原因を作った隴西太守、游楚(ゆうそ)