孫権と言えば人を困らせたり、

嫌味を言ったりすることも多いことで有名ですが、

 

そんな孫権が蜀から訪れた外交官(使者)に対して、

困らせようとしたのに見事な返答を返して、孫権を感心させた人達がいました。

 

 

まぁ逸話としては鄧芝が一番有名かもしれませんね。

 

劉備死後に同盟関係を回復させるために諸葛亮が選んだ外交官であり、

見事に同盟関係を回復させたことで有名ですから・・・

 

ただ鄧芝以外にも、孫権の嫌味的な態度に見事に返して孫権に好かれた蜀の外交官がいました。

伊籍・費禕・宗預の三名です。

 

鄧芝を入れると四名になりますね。

 

ここではそんな四名と孫権の逸話についてまとめたいと思います。

天下三分の一端を担った孫権(仲謀)

伊籍と孫権の逸話

この逸話は劉備が益州の劉璋を降した後の話です。

 

伊籍は左将軍従事中郎に任じられ、

蜀の外交官として呉に派遣されることとなりました。

 

荊州の問題もあって、劉備と孫権の関係がぎくしゃくしていた時なので、

大事な役目を担わされたわけですね。

 

 

伊籍が呉に到着して孫権に目通りし一礼して挨拶するのですが、

 

孫権は伊籍に対して、

「愚かな君主に仕えて、伊籍殿も苦労が絶えないのだろうなぁ」

と皮肉交じりに問いかけます。

 

これに対して伊籍がどう返すのか、孫権の楽しみが始まったわけですね。

 

 

これに対して伊籍は、

「立って一礼するだけなんだから、

苦労なんてとんでもないですよ(むしろ楽すぎます)!」と返します。

 

 

まぁ今一意味が分かりにくいですよね。

 

どういうことかここでは少し掘り下げて説明すると、

孫権は伊籍が仕える君主、つまり劉備が愚かだと言ったのだから、

 

「愚かな君主である劉備様には、一礼するだけだから楽ですよ」と訳せるわけですから・・・

 

まぁ侮辱された劉備を伊籍が肯定しているだけになるのでよく分かりませんよね。

 

 

ただこれには伊籍なりの皮肉が込められており、

 

「孫権様に先程一礼しましたよね?

つまり私の君主を馬鹿にした孫権様こそ愚かな君主ってことですよ」

と暗黙のうちに言ったのです。

 

 

もちろん孫権という名前を出さずに、

孫権の皮肉に対して皮肉返しをした感じです。

 

この一言で伊籍の意図を瞬時に理解した孫権は、伊籍の才能を褒め称えました。

 

 

孫権の意地悪な問いかけに対して、

自分の君主を馬鹿にさせず、かつ逆に言い負かした伊籍はさすがだと言わざるを得ません。

 

ただ忘れてはいけないのは、

伊籍の意図を瞬時に理解した孫権もまたさすがだと言えますね。

 

お互い優れた者だからこそのやりとりだったわけです。

蜀の法律「蜀科」を作成した一人「伊籍」

鄧芝と孫権の逸話

夷陵の戦いで呉に敗れた劉備は、223年に白帝城で没しました。

 

劉備は自分の死期を悟って、

呉との友好を回復する為に孫権に手紙を送っています。

 

そしてその返答として鄭泉を送って和解したのでした。

 

 

孫権と和解できたことで安心したのか劉備はそのまま帰らぬ人となったわけですが、

 

劉備が死んだことで諸葛亮は,

「孫権が攻め込んでくるのではないか?」と不安を覚えたのでした。

 

 

諸葛亮は友好関係を強固にすべく、

丁厷や陰化といった人物を使者として送りますが、うまくいきません。

 

そんな中で呉への使者として命じられたのが鄧芝でした。

 

 

鄧芝は重要な役目を持って呉へと赴いたわけですが、

孫権は「また蜀から詭弁を言いに来ただけだろう」と鄧芝に会うことすらしない始末・・・

 

同盟関係の再構築どころか会う事すら許されなかった鄧芝は、

「私が今回呉に来たのは蜀の為ではなく、呉の為なんですけどね」と孫権に上奏したようです。

 

 

「蜀の為だろ!? 呉の為とはどういったことだ!!」

と疑問に思った孫権は、とりあえず鄧芝と会う事を決意します。

 

鄧芝に会った孫権は、

「蜀との友好関係は私も望んではいるけど、

劉禅殿はまだ若いし、蜀の領地も小さし、夷陵の戦いではに我らに敗れて勢いもない。

 

そんないつ魏から滅ぼされるとも分からない蜀と同盟しても呉にメリットはないのではないか!?」

と真っ先に問いかけました。

 

 

これに対して鄧芝は次のように答えています。

「呉と蜀は併せて四州(揚州・交州・荊州・益州)を支配しており、

孫権様は一代の英雄、そして諸葛亮は一代の傑物です。

 

また蜀は険しい山々に守られており、呉も三江によて守られております。

 

呉と蜀が共に長所をもって助け合えば魏を倒して天下を統一することも可能な事です。

ましてや現在の三国の関係を維持することなど容易なことです。

 

 

もしも孫権様が魏に服従するのならば、魏は孫権様に入朝するように命じてくるでしょう。

最低でも皇太子を人質として魏に送るように命じてくるのは自然な流れです。

 

その上でもし孫権様がその命に従わなかったならば、

魏はこれ見よがしに呉へと攻め込んでくるのは明らかです。

 

 

この時に呉蜀が同盟関係を結んでいなかったなら、

蜀は魏の侵攻に乗じて呉に攻めることとなるでしょう。

 

そうなってしまえば江南の地は孫権様のものではなくなってしまいますよ。

これが呉の為だと言った私の真意です。」

 

鄧芝の話に納得した孫権は魏との関係をなかったものとし、

再び蜀と同盟関係を構築することを決めたのでした。

 

当時皇太子であった孫登を入朝させるように何度も使者が送られており、

孫権としても鄧芝の言葉に思う所があったのも大きな理由でしょうね。

鄧芝と孫権の逸話 ~return~

鄧芝の働きによって呉蜀の同盟が成立し、

呉は張温を蜀へと送り、正式に同盟関係を築いたのでした。

 

そしてそれに対して、鄧芝が再度呉へと赴くことなります。

 

 

孫権は呉を再度訪れた鄧芝との会話の中で、

「呉蜀が協力して魏を倒した暁には、

呉蜀で天下二分して国を治めるとは風流な事ではないか!」と言うのですが、

 

 

鄧芝は、「天に太陽が二つないのと同じで、

この世に二人の君主がいるなどありえないことです。

 

魏を滅ぼされた後に両国がどうなるか孫権様は分からないようなので、

はっきりと申し上げておきますが、

 

呉蜀の君主が徳を競い合い、

それぞれの臣下一同が忠誠を尽くして仕え、

将軍が陣太鼓のバチを持って戦いが始まるだけでしょう」と正直に思った事を述べたわけです。

 

 

鄧芝の言葉を聞いた孫権は、

あまりに正直すぎる回答をした鄧芝の言葉に大声で笑ったそうです。

 

これにより呉蜀の関係は強く結ばれたのでした。

 

 

後に孫権は諸葛亮へと手紙を出しています。

 

その手紙の中で、「君が送ってきた丁厷は上辺だけ立派な事を言っていた。

また陰化に関しては上辺の言葉すらなかった。

 

呉と蜀が再び手を取り合えたのは、まぎれもなく鄧芝の功績に他ならない!」と鄧芝をべた褒めしたのでした。

呉との関係修復を成し遂げ、文武両面で活躍した鄧芝

費禕と孫権の逸話

この話は諸葛亮が南蛮遠征から帰還した後の話です。

 

そして諸葛亮が南蛮討伐を成し遂げたことを孫権に報告する為に、

その使者に選ばれたが費禕でした。

 

 

孫権は費禕が訪れることを事前に知らされており、

 

孫権は費禕が優れている者だと聞いていたので、

事前に諸葛恪・羊衜ようどうに費禕が困りそうな質問を作らせていました。

 

もちろんですけどここで出てくる羊衜は、

魏晋に仕えた羊祜の父である羊衜とは別人ですからね。

 

同姓同名というやつです。

 

 

話がそれたので戻すと、孫権は諸葛恪・羊衜に作らせた質問を費禕に投げかけると、

費禕は何事もなかったかのようにそれを丁寧にかつ、きちんと回答!

 

あまりに見事に返した費禕に対して、孫権としては面白くなく、

宴会で酒を飲ませて酔わせた際に、費禕がボロをだすように今度は仕向けたそうです。

 

 

費禕が酔った頃を見計らって、

孫権は今度は国事やこの世の情勢についての難しい質問をされるのですが、

 

費禕は酔っている今の状態ではまともな回答ができないかもしれないと冷静に判断し、

一旦退出して良いが覚めたところで孫権から問われた質問に対する返答箇条書きでしたためたのでした。

 

 

その回答を見た孫権は、非の打ちどころのない費禕の返答を見て、

費禕の優れた才能を認めざるを得なかったといいます。

 

そして費禕に対して、

「費禕殿は天下に響く徳を備えた人物であり、近い未来に蜀の重鎮となるだろう。

そしたら今のように簡単に会う事はなくなるだろうなぁ」と費禕に語ります。

 

 

孫権が言ったように費禕は右肩上がりで出世していったことで、

次第に呉に赴くことはなくなっていったのでした。

費禕 -蜀漢を支え続けた最後の「四相(四英)」-

宗預と孫権の逸話

234年に諸葛亮が五丈原でなくなると、

蜀で大きく心配されたのが、呉蜀の関係が崩れ去るのではないかということでした。

 

まさに劉備が亡くなった時と同じような状況が生まれたわけです。

 

 

実際に孫権はこの時に巴丘の兵士を増やしており、

孫権は「諸葛亮の死に乗じて魏が蜀へと攻め込むのではないか?」と思い、

 

もしもの際は蜀に援軍として送ることができるし、

最悪蜀が魏に滅ぼされることが避けられなかった際は、蜀の領土を切り取ろうと考えていました。

 

 

孫権が巴丘の守備兵が増えたことに対して危機感を覚えた蜀は、

蜀はもしもの際に備えて永安城(白帝城)の守備兵を増やして対応したのです。

 

そして同時に呉に対して宗預を使者として遣わします。

 

 

宗預と会った孫権は、

「最近白帝の守備兵を増やしていると聞いたけれども、

それはいかなる理由なのか?」と問うと、

 

「呉が巴丘の守備兵を増やせば、

蜀が白帝の守備兵を増やすのは当たり前のことです。

 

それを互いにわざわざ説明することに何の意味があるのでしょうか!?」と返したのでした。

 

正直な返答をした宗預を孫権は非常に気に入ったといいます。

 

 

それからしばらくして再度宗預が呉へ赴くと、

「宗預殿はいつも呉蜀の間の橋渡しをしてくれた。感謝しかない。

しかし宗預殿も私も歳を取って気力も衰えてきている。

 

今回が宗預殿と会える最後になるだろう・・・」と孫権は涙を流します。

 

そしてこれまでの感謝の意味も込めて、大珠一斛(十斗)を与えて宗預との別れを惜しんだのでした。

気骨の精神を持ち主であり、孫権に涙された宗預

 

 

孫権が本気で気に入った使者の共通点としてあげられることは、

 

表面上だけの受け答えではなく、

心の底から思っていることを正直に答えた者達だったということですね。