劉備に味方した沙摩柯(しゃまか)
沙摩柯は「五谿蛮」と呼ばれる異民族の王でした。
そんな五谿蛮の王であった沙摩柯ですが、
陳寿の記した「三国志(正史)」にはほとんど登場していません。
その中でも沙摩柯が正史に登場するのは、
劉備が夷陵の戦いに挑むにあたり、
馬良の説得を受けて劉備へ味方したといった内容ですね。
ただ結果は既存の通り、劉備率いる蜀軍の大敗によって幕を閉じます。
そして蜀軍の敗北によって、
沙摩柯もまた首を刎ねられたと呉書「陸遜伝」に書かれています。
「三国志演義」で描写される沙摩柯
「三国志演義」の沙摩柯も、正史同様に夷陵の戦いで劉備に味方しています。
沙摩柯は真っ赤な顔をしており、
その目は碧眼で、それは鋭い目をしていたといいます。
そして沙摩柯は鉄疾黎骨朶という武器を片手に持ち、
左右の腰に弓を常備していたといいます。
そんな沙摩柯ですが、三国志演義では大変な手柄を与えられています。
「泣く子も黙る」と言われた甘寧は、
病気ながらも呉の未来を案じて無理して出陣していたのですが、
甘寧に矢を打ち込んで負傷させたのがこの沙摩柯で、
甘寧はこの傷が元で死亡しています。
しかし正史同様に蜀軍が陸遜の火計によって大敗を喫すると、
沙摩柯は撤退しはじめるわけですが、
この時に沙摩柯を追ってきた周泰と一騎打ちするはめに・・・
沙摩柯と周泰の一騎打ちは、二十合あまり打ち合う戦いになるものの、
最終的に周泰に討ち負けて討ち取られてしまうのでした。
三国志と異民族の立ち位置
沙摩柯が劉備に味方したように、
三国志の時代は異民族との付き合いが左右する世の中でもありました。
異民族は「化外の民」と軽蔑されていた時代でもあったけれども、
異民族の及ぼす影響が強い時代でもありました。
ちなみに化外の民とは、中華圏外の人々と言った意味があり、
中央の影響を受けない人々でもあったわけです。
魏は北方民族であった匈奴・鮮卑・鳥丸族らとの戦いが常に繰り広げられ、
呉もまた山越族と呼ばれた人々との戦いの歴史でした。
そして蜀もまた南蛮族らとの戦いの歴史がありました。
その一方で異民族の力を借りる機会も多くあり、
それが魏呉蜀に及ぼす影響は計り知れないものでもあったわけです。
劉備は決して戦いがうまい人物とは言えませんが、
それでも異民族を味方につけることの大きな意味を知っていたのでしょう。
夷陵の頃には無くなっていた関羽もそうでしょうね。
樊城侵攻していた際に、
許昌に近い地域にいる郟・梁・陸渾らの賊を味方につけることを忘れなかったからこそ、
曹操は非常に危機感を覚え、遷都まで考えたといいますから・・・
しかし夷陵の戦いの敗北によって、劉備は蜀の国力を大幅に低下させ、
折角味方につけた沙摩柯らを活かしきれず、この世を去ることになったのでした。
馬良は武陵蛮ら異民族の反発にあって亡くなった!?
夷陵の戦いによって討死した人物に、
五谿蛮などの異民族を味方につけた馬良の功績が大きくあげられますが、
馬良の最後は呉軍によって討ち取られたものではなく、
実は異民族らの反発によって最後を迎えたと伝わっています。
異民族らには官位・印綬をばらまいて味方につけたという経緯があったからで、
夷陵の戦いで敗北濃厚になった蜀にこれ以上味方する理由もなく・・・
その上沙摩柯も討ち取られており・・・
だからこそ異民族を引き連れて夷陵に参戦した馬良が、
異民族の反発の矛先となり、討ち取られてしまったのです。
白眉とまで高く評価された馬良でしたが、
夷陵の敗北によってその巻き添えとなってこの世を去ったのでした。
沙摩柯は楚人の末裔だった!?
范曄が著した「後漢書」の八十六巻の南蛮西南夷列伝には、
沙摩柯ら武陵蛮以外にも、
長沙蛮・零陽蛮・桂陽蛮などをまとめて
槃瓠蛮(槃瓠族の子孫)と呼んでいたようです。
また武陵蛮も更に小さく分けると、
零陽蛮・五谿蛮・澧中蛮・淒中蛮などに分けられたりします。
またこれらの地域の異民族らは、
上で述べた「化外の民」とは一線を画すもので、
中央からの命令が及びにくい点は同じかもしれませんが、北方民族らとはまた違ったものだと思います。
特に武陵蛮・長沙蛮・零陽蛮・桂陽蛮がいた地域は、
戦国時代の楚の支配下にあった領地であり、
楚の領地は他の国(秦・韓・魏・趙・燕・斉)と併せた領地に匹敵する大きなもので、
他の国との習慣や言葉が違っていたといいます。
そして楚の支配を長らく受けた末裔が呼び名を変えたりしながら、
武陵蛮・長沙蛮・零陽蛮・桂陽蛮としてこの地に住み着いていたのでしょうね。
それを漢王朝時代に異民族に近い立ち位置として、
漢民族とはまた違った呼び名として定着させたと考えています。