張儼(ちょうげん)×「黙記」
張儼は孫家四代(孫権・孫亮・孫休・孫晧)に仕えた人物で、
張儼といえばほとんどイコールになってしまうのが、
張儼が著した「黙記」だと思います。
なぜ「黙記」かというと、諸葛亮の「後出師表」についての記載が残っているからです。
まぁ「後出師表」自体が、正史に記録が残っていない為に、
嘘だとも言われていますが、今現在もその真偽に決着がついていない問題でもあります。
※裴松之が陳寿の「三国志」に注釈を加えてはいます。
そういう点からも張儼といえば、自然と「黙記」が思い浮かぶんですよね。
ちなみにですけど張儼が諸葛亮の北伐に対して、
「連年にわたって兵を動かしながらも、これといった結果を残せず、
そればかりか国力と民衆を疲弊させただけであった。」
と大きく批判した言葉も残していますね。
「呉の四姓」だと思われる張儼
張儼の出生に関しては謎が多い人物ですが、
揚州呉郡呉県の出身であることから、
非常に高い確率で「呉の四姓」の一族だと思われます。
なぜそう言えるのかというと、「呉郡呉県」で「張姓」だからですね。
ここでは「呉の四姓」についての事は深堀りしませんが、
簡単に言ってしまうと、
「顧氏・陸氏・朱氏・張氏」の四姓の事をいいます。
- 顧氏(顧雍の一族/顧雍・顧邵・顧譚・顧悌・顧栄・顧済等)
- 陸氏(陸遜の一族/陸遜・陸康・陸抗・陸瑁・陸績・陸凱・陸胤等)
- 朱氏(朱桓・朱拠の一族/朱桓・朱拠・朱異・朱熊・朱損・朱皇后等)
- 張氏(張温の一族/張温・張允・張祗・張白等)
また張儼は若い時から高い名声を得ていたということなので、
この記載と呉郡呉県の出身であることを掛け合わせるだけで、
「呉の四姓」である確率が非常に高いと言えるわけです。
もし貧しい所(名声が乏しい)からの出生だった場合、
若い時から高い名声を獲得するのは、かなり難しいところがあるのが実情になりますからね。
そんな張儼ですが、若かりし頃に、
同郷(呉郡呉県)の朱異や張純と非常に仲が良かったといいます。
朱異は朱桓の子供のことで、
一方の張純は張温の同族とされる張惇の子供であるので、
張儼が「呉の四姓」であることの揺るぎない証拠となるでしょう。
若かりし頃の張儼
若かりし頃から盛んに交流していた張儼・朱異・張純の三人ですが、
ある時に朱拠のもとを尋ねていくことがあったそうです。
その際に朱拠は張儼の才能を称賛したといいます。
朱拠は朱異の父親である朱桓と同族で、
孫権の娘である孫魯育を妻として娶った人物になるのですが、
その娘である朱氏は後の第三代皇帝となる孫休の妻となった女性ですね。
そんな朱拠から高い評価を得た張儼ですが、孫権に仕えると、高官を歴任していくことに・・・
まぁこれは普通に名門出身だったからでしょう。
ただ張儼が高い才能を持っていたことだけは間違いなく、
「請立太子師傅表」なるものを孫権に上奏したこともありました。
大鴻臚(九卿)に任じられた張儼×張儼の最後
ここからだいぶ時間は過ぎますが、張儼の名声は更に高まり、
孫晧の時代には、九卿である大鴻臚に任じられるまでになります。
「大鴻臚」という言葉だけではわかりにくいので、
もう少しわかりやすい言い方をすると、「外交官のトップ(長官)」みたいな感じになるかもしれません。
266年になると、張儼はに大きな役目が与えられ、
五官中郎将であった丁忠と共に、晋へ使者として行くように命じられます。
「ちなみになんの為の使者だったのか!?」
というと、交州を失うなど大きく弱体化していた呉にとって、
晋との和議を結ぶ為の使者でしたね。
張儼・丁忠が洛陽に到着すると、
賈充・裴秀・荀勗らによって、張儼は色々と難しい質問を投げかけられます。
張儼はその問いに見事なまでに返したといいます。
また張儼は晋にいるうちに、羊祜・何楨らと親しくなったといいますが、
それから間もなく呉へと帰還している最中に亡くなってしまうのでした。
その後の余談ですが、呉へと帰還した丁忠は、
「北方には防戦の備えが手薄なので、
不意をついて弋陽を攻め込みましょう!」と孫晧に提案するものの、
陸凱の反対によって攻め込むことはなかったようです。
そして丁忠の話を聞く限り、
張儼・丁忠の和議の話は失敗に終わったとみるのが自然でしょうね。
だからこその丁忠の弋陽攻撃の提案だったのだと・・・